Episode 15:『厄払いの風鈴』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の大学生だった。苛立ちと居心地の悪さが入り混じったような、複雑な表情をしていた。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。
懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒、曇り一つない硝子板、音の鳴らない鈴、文字の消えた招待状、蓋の開かない文箱——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
――俺の住むアパートの隣に、一人のおばさんが引っ越してきた。
それまで、アパートの誰とも関わりなく暮らしてきた。それが心地よかった。なのに、おばさんは気兼ねなく挨拶をしてくる。
廊下ですれ違うたび、「おはよう」「お疲れ様」と、まるで長年の知り合いのような気安さで声をかけてきた。無視するのも角が立つと思い、俺はされる挨拶に、仕方なく返していた。
ある日、インターホンが鳴った。出ると、おばさんだった。
「作りすぎたから、よかったら」と、パックに入った料理を差し出してきた。
他人が作る料理など気持ち悪いと思いながらも、なんとも美味そうな匂いに、つい受け取ってしまった。
食べてみると、普通にめちゃくちゃ美味かった。捨てられるパックにわざわざ入れ替えてくれている、その気遣いにも、少し戸惑った。
――そんな日々が、それから何度も続いた。
肉じゃがの日もあれば、唐揚げの日もあった。どれも、家庭的な味だった。
大学な入学して一人暮らしを始めてから、コンビニ弁当ばかり。バイトはしてるけど、正直金もかかる。
まともな手料理なんて久しく食べていなかったから、正直、ありがたい気持ちもあった。
でも、次第に、この関係が気持ち悪くなってきた。悪い人ではない。それは分かっている。でも、言いづらい。
「こないだ来てた子は大学のお友達?」
聞かれてもいないことを、おばさんはやたらと知っていた。
俺の生活パターンも、休日の過ごし方も、まるで見ていたかのように言い当ててくる。最初は偶然だと思っていたが、積み重なるうちに、さすがに不自然だと感じ始めた。
「昨日は帰ってくるの遅かったね。お疲れ様」
ある日、そう聞かれたとき、俺は背筋が冷えた。俺の私生活まで、いつの間にか把握されている気がした。
ストーカーなんじゃないか。そう思うと、距離を置きたくてたまらなくなった。
玄関を出るときも、帰るときも、おばさんの部屋のドアが視界に入るたび、無意識に足早になっている自分がいた。
「引っ越してくれねぇかな……」
そんなことをぼんやり考えていた時、俺はこの店にたどり着いていた。
「隣人と、うまく距離を置きたいんです」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「鳴らせば、煩わしい相手が、自然と離れていく風鈴があります」
「――いくらっすか?」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。この気味の悪さから解放されるなら、他に何を失っても構わないと思った。
「――ください」
差し出された小さな風鈴を、玄関先に吊るした。ちりん、と一度だけ鳴った音が、やけに耳に残った。
数日後、隣室から物音が聞こえた。出てみると、おばさんが荷物をまとめていた。
段ボールはそれほど多くなく、彼女がどれだけ簡素な暮らしをしていたか、その量から窺えた。
「急に、引っ越すことになって。最後に、これだけ」
差し出された料理を、俺は何も言えないまま受け取った。おばさんは、いつもと変わらない、柔らかい笑顔だった。
少しだけ引っかかった。それでもホッとした。風鈴の効果が出たんだ。
「元気でね」という一言だけを残し、おばさんはトラックに乗り込んでいった。
それから、おばさんの部屋は空になった。廊下ですれ違う声も、インターホンの音も、ぱたりと止んだ。
あれほど煩わしいと思っていたはずなのに、静かになった隣室を見るたび、なぜか妙な胸のざわつきを覚えるようになっていた。
――数日後、郵便受けに、一通の手紙が入っているのを見つけた。差出人の名前はなかった。開けてみると、丁寧な字で、こう書かれていた。
――隣に住んでいた者です。突然このような手紙を、驚かせてしまってごめんなさい。
最後まで言い出せなかったけど、あなたが小さい頃、離婚して離れ離れになった、母です。
もう長くないと分かって、どうしても、もう一度だけ顔が見たくて、あなたのお父さんに住所を聞いて、あのアパートを選びました。
名乗る勇気はなかったけれど、あなたのそばで過ごせた時間は、何より幸せでした。作ったお料理を美味しいと食べてくれるだけで、十分でした。
私は末期の癌です。最後に、会えてよかった。
手紙は、そこで終わっていた。震える手で便箋を握りしめながら、俺は玄関先の風鈴を見上げた。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。音の鳴らなくなった小さな風鈴——もう二度と誰かを遠ざけることのない、誰かの願いの残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




