表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/15

Episode 15:『厄払いの風鈴』

次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。


その日、扉を叩いたのは一人の大学生だった。苛立ちと居心地の悪さが入り混じったような、複雑な表情をしていた。


案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。


棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。


懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒、曇り一つない硝子板、音の鳴らない鈴、文字の消えた招待状、蓋の開かない文箱——どれも値札はついていない。


「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」


――俺の住むアパートの隣に、一人のおばさんが引っ越してきた。


それまで、アパートの誰とも関わりなく暮らしてきた。それが心地よかった。なのに、おばさんは気兼ねなく挨拶をしてくる。


廊下ですれ違うたび、「おはよう」「お疲れ様」と、まるで長年の知り合いのような気安さで声をかけてきた。無視するのも角が立つと思い、俺はされる挨拶に、仕方なく返していた。


ある日、インターホンが鳴った。出ると、おばさんだった。


「作りすぎたから、よかったら」と、パックに入った料理を差し出してきた。


他人が作る料理など気持ち悪いと思いながらも、なんとも美味そうな匂いに、つい受け取ってしまった。


食べてみると、普通にめちゃくちゃ美味かった。捨てられるパックにわざわざ入れ替えてくれている、その気遣いにも、少し戸惑った。


――そんな日々が、それから何度も続いた。


肉じゃがの日もあれば、唐揚げの日もあった。どれも、家庭的な味だった。


大学な入学して一人暮らしを始めてから、コンビニ弁当ばかり。バイトはしてるけど、正直金もかかる。


まともな手料理なんて久しく食べていなかったから、正直、ありがたい気持ちもあった。


でも、次第に、この関係が気持ち悪くなってきた。悪い人ではない。それは分かっている。でも、言いづらい。


「こないだ来てた子は大学のお友達?」


聞かれてもいないことを、おばさんはやたらと知っていた。


俺の生活パターンも、休日の過ごし方も、まるで見ていたかのように言い当ててくる。最初は偶然だと思っていたが、積み重なるうちに、さすがに不自然だと感じ始めた。


「昨日は帰ってくるの遅かったね。お疲れ様」


ある日、そう聞かれたとき、俺は背筋が冷えた。俺の私生活まで、いつの間にか把握されている気がした。


ストーカーなんじゃないか。そう思うと、距離を置きたくてたまらなくなった。


玄関を出るときも、帰るときも、おばさんの部屋のドアが視界に入るたび、無意識に足早になっている自分がいた。


「引っ越してくれねぇかな……」


そんなことをぼんやり考えていた時、俺はこの店にたどり着いていた。


「隣人と、うまく距離を置きたいんです」


店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。


「鳴らせば、煩わしい相手が、自然と離れていく風鈴があります」


「――いくらっすか?」


「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」


「何を失うか、分からない……」


「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」


店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。


迷わなかった。この気味の悪さから解放されるなら、他に何を失っても構わないと思った。


「――ください」


差し出された小さな風鈴を、玄関先に吊るした。ちりん、と一度だけ鳴った音が、やけに耳に残った。


数日後、隣室から物音が聞こえた。出てみると、おばさんが荷物をまとめていた。


段ボールはそれほど多くなく、彼女がどれだけ簡素な暮らしをしていたか、その量から窺えた。


「急に、引っ越すことになって。最後に、これだけ」


差し出された料理を、俺は何も言えないまま受け取った。おばさんは、いつもと変わらない、柔らかい笑顔だった。


少しだけ引っかかった。それでもホッとした。風鈴の効果が出たんだ。


「元気でね」という一言だけを残し、おばさんはトラックに乗り込んでいった。


それから、おばさんの部屋は空になった。廊下ですれ違う声も、インターホンの音も、ぱたりと止んだ。


あれほど煩わしいと思っていたはずなのに、静かになった隣室を見るたび、なぜか妙な胸のざわつきを覚えるようになっていた。


――数日後、郵便受けに、一通の手紙が入っているのを見つけた。差出人の名前はなかった。開けてみると、丁寧な字で、こう書かれていた。


――隣に住んでいた者です。突然このような手紙を、驚かせてしまってごめんなさい。


最後まで言い出せなかったけど、あなたが小さい頃、離婚して離れ離れになった、母です。


もう長くないと分かって、どうしても、もう一度だけ顔が見たくて、あなたのお父さんに住所を聞いて、あのアパートを選びました。


名乗る勇気はなかったけれど、あなたのそばで過ごせた時間は、何より幸せでした。作ったお料理を美味しいと食べてくれるだけで、十分でした。


私は末期の癌です。最後に、会えてよかった。


手紙は、そこで終わっていた。震える手で便箋を握りしめながら、俺は玄関先の風鈴を見上げた。


あわい商店には、値札がない。


差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。


棚には、また新しい品が一つ増えている。音の鳴らなくなった小さな風鈴——もう二度と誰かを遠ざけることのない、誰かの願いの残骸。


それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。


求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。


「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ