Episode 8:『視声の眼鏡』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の青年だった。目は落ち窪み、ずっと何かに耳を澄ませているような、落ち着かない仕草をしている。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆——どれも値札はついていない。空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
――三年前、俺の親友が死んだ。自分から、命を絶った。
あとから知った。あいつは何度もサインを出していた。
SNSの投稿、既読のつかないメッセージ、駅のホームで妙に長く立ち止まっていたという目撃情報。
全部、俺の目の前を通り過ぎていったはずなのに、俺は何一つ気づけなかった。
葬式の日、あいつの母親に「あなたが一番の友達だったのに」と言われたときの視線を、俺は今でも忘れられない。
それから俺は、誰かのSOSを見逃さないことに、取り憑かれたように生きてきた。
電車で泣いている人に声をかけ、橋の欄干に立つ人を何度も引き止めた。
それでも、俺が気づけるのは、たまたま俺の目の前にいた人だけだった。あいつの声に気づけなかった夜のことを思うと、それだけではとても足りない気がしていた。
「もっと、気づけるようになりたいんです。俺の目の届かないところにいる人の声も」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「この眼鏡をかければ、あなたの周囲にいる、助けを求めている人の心の声が聞こえるようになります」
「――おいくらですか?」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。もう二度と、あいつのようにこの世を去る人を見逃したくなかった。
「――お願いします」
差し出された眼鏡をかけた瞬間、街のあちこちから、声が流れ込んできた。
驚いて、ふと外そうとして気づいた。眼鏡は、指一本かけても、なぜかびくともしなかった。まるで、最初から顔の一部だったかのように。
効果は凄かった。橋の下で泣いていた女性を、声のする方向へ迷わず走って助けた。
横断歩道で、事故に遭いそうな老人を、間一髪で助けた。
「お兄さん、ありがとう。君は命の恩人だ」
本人にも家族にも感謝された。お礼として時に謝礼を受け取ることもあった。
もちろん断ったが、「受け取ってくれないと気が済まない」と半強制的に渡された。
警察にも呼ばれて、人命救助として感謝状をもらった。誇らしかった。
「ありがとう」が生きる糧だった。もっと頑張ろう、と心から思える。
俺は、あいつを救えなかった過去の後悔を、少しずつ埋め合わせていった。
でも、次第に、聞こえる声に異変が起きてきた。
聞こえるのは、命に関わる悲鳴だけじゃない。
仕事に疲れた誰かのため息。失恋した学生の涙。渋滞にイライラする運転手の舌打ちにも似た心の声。街を歩くだけで、何百人分もの小さな苦しみが、絶え間なく頭の中に流れ込んでくる。
最初のうちは、大きな声にだけ応えるようにしていた。
それでも、「今月の家賃が払えない」という誰かの切実な心の声が聞こえれば、気づけば財布から金を渡していた。
「上司に押し付けられた失敗を、誰かのせいにしたい」という声が聞こえれば、なぜか自分がその代わりに頭を下げていた。
声が聞こえてしまう限り、見て見ぬふりができなかった。
夜も眠れなくなった。誰かの不眠の声が、俺の不眠に重なる。
悲しいのが自分なのか、すれ違った誰かなのか、次第に分からなくなっていった。鏡を見ても、今の自分がどんな顔をしているのか、うまく認識できないことが増えた。
貯金は、いつの間にか底をついていた。
「ありがとう」だけでは、生きていくのが難しくなった。
月日が経つにつれて、助けた相手の心の声は、感謝ではなく、次第に「もっと」に変わっていった。
「また助けてくれるだろう」「あいつなら断らない」――そんな声が、当たり前のように混じるようになった。
誰かを一人救うたびに、二人分、三人分の期待と要求が、新しく押し寄せてくる。
――僕を救って
自分の声が脳内に響いた。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。レンズの曇った小さな眼鏡——もう二度と誰の声も届けることのない、誰かの祈りの残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




