Episode 7:『百万夜の万年筆』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の青年だった。目の下には濃い隈があり、指先はインクで汚れたままだった。何日も家に帰っていないような、くたびれた格好をしている。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐——どれも値札はついていない。
空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。天井から下がるランプは、灯っているのに影を伸ばさない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
俺は、漫画家だ。もう十年、鳴かず飛ばずだ。デビュー作は三ヶ月で打ち切られた。二作目は連載すら始まらなかった。三作目、四作目――描いても描いても、担当以外の誰にも読まれないまま原稿は積まれていった。
同期でデビューした奴は、とっくにアニメ化を果たしていた。SNSで彼の名前を見るたびに、俺は自分の才能のなさを突きつけられている気がした。
担当編集の田中さんだけは、ずっと俺を見捨てなかった。売れない連載が打ち切られるたびに、「次があります」と言い続けてくれた。
バイトを掛け持ちしながら描き続けた原稿の山は、もう何百枚になるか分からない。
貯金は底をつき、体は限界だった。
それでも、田中さんの「大丈夫、あなたには才能がある」という言葉だけを支えに、俺は描き続けてきた。最後に会った日、田中さんは俺の顔色を見て、何も言わずにコンビニのおにぎりを二つ差し出してくれた。
「――売れたい。ただ、それだけなんです」
絞り出すように、俺はそう言った。
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「一本の万年筆があります。それで原稿を書けば、翌日には百万部、その先にはアニメ化も、映画化も――あなたの望む成功が、すべて叶います」
「――なんでもする。いくらだ」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。金なんて僅かしか奪われても問題ない。とにかく売れるならなんだって――田中さんの顔が、頭の中に浮かんだ。あの人にだけは、報われた姿を見せたい。
「――頼む」
差し出された万年筆を受け取り、俺は机に向かった。真っ白な原稿用紙を前に、キャップを外す。
ペン先が紙に触れた瞬間、体の中を何かが吸い上げられていくような感覚があった。目の前が急速に霞み、意識が遠のいていく。それでも手だけは止まらず、勝手に線を描き続けていた。
――目が覚めると、スマホの通知が鳴り止まなかった。
担当作の重版が決まり、その日のうちに百万部を突破したという知らせだった。信じられなかった。
数週間後にはアニメ化が発表され、書店には特設コーナーが並んだ。映画化の話も舞い込んだ。
田中さんは電話越しに泣きながら「言った通りでしょう、あなたには才能がある」と繰り返した。
それから夢のような日々が続いた。
書店に山積みになった自分の単行本。
初めてのサイン会には、会場に入りきらないほどの列ができた。インタビューでは、あの同期の漫画家と並んで表紙を飾った。
アニメの制作発表会では、声優たちが自分のキャラクターについて熱く語ってくれた。授賞式のステージで、田中さんが客席で誰よりも大きな拍手を送ってくれているのが見えた。
田中さんに、気持ちを伝えよう。俺は一つの決意を胸に、客席にいる田中さんに向けて笑った。
――
――病室の白い天井の下、田中は何年も、彼の手を握り続けていた。
医師は、もう随分前にこう告げていた。脳死状態です、と。
あの日、原稿を抱えたまま倒れて以来、彼の意識は一度も戻っていない。機械の音だけが、規則正しく病室に響いていた。
最初の一年、田中は毎日見舞いに来た。二年目からは、週に一度になった。それでも、欠かしたことはなかった。同期入社の後輩が心配して「もう十分、頑張りましたよ」と声をかけても、田中は首を横に振るだけだった。
田中は、白紙の原稿用紙を製本したものを、枕元へ、そっと置いていた。
「あたしは、これからもずっとあなたのいちばんのファンです」
田中は、いつものように、誰も聞いていない病室に向かって呟いた。
そう言うと、彼はいつも笑っているような気がした。「人の心配を差し置いて、どんな幸せな夢を見ているのかしら」
田中はそっと涙を流した。
「夢くらい、一緒に見させて欲しかった」
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。インクの涸れた小さな万年筆——もう二度と何も書くことのない、誰かの夢の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




