Episode 6:『帰路紐』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の男だった。手には、使われなくなって久しい犬の散歩紐が、大切そうに握られていた。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章——どれも値札はついていない。空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
俺は、握りしめた紐を差し出すように見せた。手のひらに、リードの持ち手の感触がまだ残っていた。
「――もう一度、あいつを走らせてやりたいんです」
あいつというのは、俺の愛犬だ。五年前、保護施設で出会った。誰にも懐かず、隅で震えていたあいつと、なぜか目が合った瞬間、「この子だ」と思った。それから、俺たちはずっと一緒だった。
毎朝、毎晩、堤防を並んで走るのが日課だった。朝は眠そうな顔で伸びをして、夕方は誰よりも先にリードをくわえて玄関で待っている。
風を切って走るあいつの姿を見るのが、俺の一日の一番の楽しみだった。
休みの日は、少し遠くの河川敷まで足を延ばして、いつもより長い距離を並んで走った。走り終えたあと、二人で堤防に座って夕日を眺める時間が、何よりも好きだった。
半年前、信号無視の車が突っ込んできた。
俺が気づいたときには、あいつはもう俺の前に飛び出していた。鈍い衝撃音と、あいつの悲鳴のような鳴き声を、今も忘れられない。
命はどちらも助かった。ただ、あいつの後ろ足は、それ以来まともに動かなくなった。
補助器具も買った。獣医にも何度も相談した。リハビリにも根気強く付き合った。
少しずつ歩けるようにはなったが、走ることはもうできないと言われた。それに、あいつは玄関の前で足がすくんでしまうのか、リードをつけても外に出ようとしなくなった。
震えながら伏せてしまうあいつを、俺は無理に外へ連れ出すことができなかった。
あの日から、俺たちの日課は消えた。夕方になっても、あいつはもうリードをくわえて待っていない。
「一日だけでいい。あいつが、自分の足で走れる一日を作ってやりたいんです」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「一日だけ、その子が自分の足で思い切り走れる帰路紐があります。ただし、日が沈めば、効果は消えます」
「――いくらだ」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。あいつがもう一度、笑うように走る姿を見られるなら、俺は何を失ってもいいと思った。
あいつが俺を庇ってくれたあの瞬間から、俺はずっと、自分の何かを差し出す覚悟をしていたのかもしれない。
「――頼む」
差し出された小さな紐を受け取った。その瞬間、白い光が辺りを包んだ。
気づけば、堤防にいた。隣には、あいつが立っていた。後ろ足はしっかり地に足がつき、待ち遠しいのか尻尾を大きく振ってこっちを見ている。もう震えはなかった。
「――行くか」
紐を付けると、あいつは弾かれたように走り出した。
事故の前と、何一つ変わらない走りだった。俺も全力で後を追った。
息が切れても、足がもつれても、笑いが止まらなかった。
いつもの堤防を三往復した。途中、あいつは急に立ち止まって俺を振り返り、まるで「早く」と言うように、また走り出した。
河川敷の芝生では、二人で転げ回るように追いかけっこをした。俺があいつに追いつくたび、あいつは嬉しそうに俺の顔を舐めた。
水辺に近づいては、水しぶきを上げて楽しそうに跳ね回った。
昼過ぎ、少し休憩しようと堤防のベンチに座ると、あいつは俺の膝に頭を乗せて、満足そうに目を細めた。そのまましばらく、二人で風の音を聞いていた。
午後、もう一度、今度は誰もいない河川敷を思い切り走った。あいつのスピードは、事故の前よりも速いんじゃないかと思うくらいだった。俺はもう息切れで追いつけず、あいつは何度も俺を振り返っては、待ってくれた。
日が傾き始める頃、あいつは堤防の一番高いところで立ち止まり、夕焼けの方を見つめていた。
しっぽを大きく振っていた。まるで、これでいいんだと言うように。俺はその隣に座り、あいつの背中をゆっくりと撫でた。
そして、日が沈むのと同時に、光の粒になって消えていった。あいつの姿は、悲しそうではなかった。むしろ、どこか誇らしげに見えた。
気づけば、俺は一人、堤防に立ち尽くしていた。手には、あいつの首輪だけが残されていた。
家に帰っても、玄関にはもう誰も待っていない。それでも、不思議と涙は出なかった。
あいつが最後に見せた、あの誇らしげな顔を思い出すたび、悲しみよりも、確かな温もりのほうが胸に残った。
俺は、何を失うのか、まだ分からない。それでも――後悔はしていない。
あわい商店の奥、店主の前に、一つの小さな魂が立っていた。あの犬だった。
「ありがとうございました」
次元の狭間にたどり着けるのは、人間だけとは限らない。本当にどうしようもない願いを抱えていたのは、男ではなく、犬のほうだった。
あの日、震えながら伏せることしかできなくなった自分を、ずっと歯痒く思っていた。大好きな主人が、朝起きて、無意識に玄関きて、はっとしてまたリビングに戻る姿。寂しそうな顔で一人で出かけていく姿。
全部知っていた。残りの寿命を差し出してでも、僕は――。
あと何年も一緒にいられる、不自由な時間よりも――もう一度、主人の隣を全力で走れる、たった一日を。
「僕は幸せだった。ありがとう」
犬はそう呟くと、光の粒になって静かに消えていった。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。使い古された小さな帰路紐——もう二度と繋がれることのない、誰かの最後の一日の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




