Episode 5:『血縁印』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の女だった。高価なコートを着ているのに、指先はずっと震えている。何かに追い立てられるような足取りで、店に転がり込んできた。
案内も広告もない店に、彼女がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼女を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
「――子供の、父親を変えたいんです」
私には、夫がいる。可愛い盛りの息子もいる。誰から見ても、幸せな家庭だった。休日は三人で公園に行き、夫は息子を肩車して笑わせる。夜、息子を寝かしつけたあと、夫と二人でぬるいビールを飲みながら他愛のない話をする。そんな、なんの変哲もない日々を、私は何より大切にしていた。
でも、本当はあの子は、夫の子供じゃない。結婚する前、別れ話がこじれた元カレと、最後に一度だけ過ちを犯した。
彼とは、別れ際に何度も揉めた。私が新しい恋人(今の夫)と歩き出そうとするたび、元カレは未練がましく連絡してきた。
最後に会ったあの夜のことを、私はずっと後悔していた。その結果を、私はずっと墓場まで持っていくつもりだった。
先週、その元カレから、数年ぶりにメッセージが届いた。最初は世間話のような文面だった。
それが、息子の年齢や誕生日を聞いてくる質問に変わり、最後には「あの子、俺の子だろ。遺伝子検査すればすぐ分かる」という一文で締めくくられていた。
慰謝料か、それとも別の何かか、彼が何を望んでいるのかは分からなかった。
ただ、夫にバラされたら、すべてが終わることだけは分かっていた。震える手でスマホを握りしめながら、私は気づけばこの店の前に立っていた。
「あの子の、血の繋がりそのものを、書き換えてほしいんです」
声が震えていた。今さら引き返せないところまで来てしまった自分を、心のどこかで俯瞰していた。
それでも、あの子と夫との日々を失うくらいなら、なんだってすると思った。
店主は、私の目をまっすぐに見て言った。
「押した瞬間、血の繋がりそのものを書き換える印があります。押された家系図は、最初からそうだったことになります」
「――いくらですか」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。今の生活を守れるなら、他に何を失っても構わない。
「――お願いします」
差し出された小さな印章を受け取り、店主が広げた真っ白な家系図の紙に、震える手で押し当てた。
朱色の印影が、じわりと紙に染み込んでいく。まるで、あの子の中に流れる血そのものが、静かに書き換わっていくようだった。
指先が、かすかに熱を持った気がした。
――気づけば、私は自宅のリビングにいた。何も変わっていないように見えた。壁の家族写真も、息子のおもちゃ箱も、いつも通りだった。それでも、指先に残る朱肉の匂いだけが、さっきまでの出来事が夢ではなかったことを教えていた。
翌日、夫と息子を連れて病院へ行き、元カレの目の前で遺伝子検査を受けた。
待合室で、夫は何も知らないまま「なんの検査だっけ」とのんきに聞いてきた。私は「息子の成長記録のためのやつ」と、笑顔を作って誤魔化した。
結果が出るまでの数日間、生きた心地がしなかった。夜も眠れず、何度もスマホの通知を確認しては、また眠れなくなった。
待ちに待ったその日――結果は、夫の子供だった。
元カレにそのことを伝えると、「そんなはずない…!!」と信じられない様子だったが、渋々納得せざるを得ないようだった。
私は病院の廊下で、思わずへたり込んだ。これでようやく、あの日々を守れる。そう思った。
安堵したのも束の間、病院の受付で妙なことを言われた。
「母子手帳で記録は確認できますが、出産した病院の方が詳しくわかると思いますよ」
「たしかに。なぜ別の産院にきたのだろう?」
夫は不思議そうに答えた。
――違う。あの子を産んだのは、この病院だった。私は間違いなく、この病院で、あの子産んで、抱いた。
「何を言ってるの!?あたしが、ここで産んだ!確かにそうよ、母子手帳だって書いてあるじゃない――」
鞄から取り出した母子手帳には、見覚えのない女性の名前が記されていた。
夫は困惑した顔で私を見た。
「――何を言ってるんだ?あの子は、生まれてすぐ、うちで引き取った子だろう」
「ママ……?」
息子まで、不思議そうに私を見上げていた。
世界は、書き換わっていた。あの子は、別の女性が産み、私たち夫婦が引き取った子供――そういう歴史に。
夫にも、息子にも、その記憶しかなかった。
願いは、確かに叶った。あの子は、正真正銘、夫の子供になった。
でも、私は――あの子を産んだ、母親ではなくなっていた。
その夜、私は一人でアルバムを開いた。誰も、私の記憶を信じてくれない。写真を見せて証拠を見せようと思っていた。
――一切の妊娠、出産直後の写真がなくなっていた。
それでも、あの子は今日も「ママ」と私を呼んで、無邪気に抱きついてくる。その温もりだけは、書き換わっていなかった。
私だけが知っている真実を、私だけが抱えたまま、それでも家族として生きていくしかない。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。朱肉の乾いた小さな印章——もう二度と押されることのない、誰かの家族の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




