Episode 4:『還魂灯』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を蹴破るように開けたのは一人の女だった。化粧は崩れ、爪は荒れ、目だけがぎらついている。
案内も広告もない店に、彼女がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼女を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計——どれも値札はついていない。
空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。天井から下がるランプは、灯っているのに影を伸ばさない。
女はその静けさに苛立ったように、乱暴に棚を睨みつけた。
「――娘に会いたい。もう一度、あの子に会わせろ」
「お客様。人の命は戻りません」
「うるせえな!願い事を叶えてくれる店なんだろ!?願いを叶えろよ!」
女は声を荒げ、店主に詰め寄った。店主は、一歩も後ろに下がらなかった。表情も変えず、ただ静かに女を見つめ返すだけだった。
しばらく彼女を見つめたあと、棚の奥から小さな灯りを一つ取り出し、黙って差し出した。
「――あるんじゃねーか」
女は灯りをひったくるように受け取った。店主が何も告げないまま、彼女はそれに火を灯した。橙色の小さな炎が、ふわりと揺れる。
瞬間、視界が白く染まり、気づけば女は自分の家の中に立っていた。
迷わず子供部屋の扉を開ける。ベッドの上には、あの日と変わらない姿の娘が眠っていた。
「起きろ」
女は容赦なく娘を揺さぶった。娘はゆっくりと瞼を開け、母親の顔を見て、何も言わずにただ小さく頷いた。
「お前がいないと、金がねえんだよ。分かってんな」
娘の部屋は、年頃の少女らしい物はほとんどなかった。制服はクローゼットの奥で埃をかぶり、教科書には途中で止まったままの付箋が挟まっている。代わりに机の引き出しには、年齢には似合わない化粧品と、開封された避妊具の箱が無造作に押し込まれていた。壁には、小さなカレンダー。日付の横には、赤い丸が何十個も付けられている。娘が休めた日は、一日もなかった。
娘は、何も言わなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
その目には、驚きも、喜びも、何も浮かんでいなかった。まるで、生き返ったことすら、たいした意味を持たないとでもいうように。
母娘の暮らしは、とうに壊れていた。
娘は幼い頃から、母の借金の形として、見知らぬ男たちのもとへ通わされ続けていた。
稼いだ金は、すべて母の手に渡った。誰にも助けを求められないまま、娘はある夜、静かにこの世を去った。
それでも母は、涙一つ流さなかった。ただ、収入が途絶えたことだけを嘆いていた。
「しばらくいなかったんだ、しっかり稼いでもらうからな。今日は太客だから機嫌損ねるなよ」女はいつものように、娘を家から送り出した。
「――やっと帰ったきたって連絡来たかと思えば、ずいぶん待たすじゃねぇか」
会長からそう連絡が来たのは、見送って数時間後だった。
女は苛立ちながら電話越しに答えた。
「何言ってるんですか、いつも通り、そっちに向かわせたはずだけど」
「来てねえよ。お前、俺を騙したのか?」
会長、と呼ばれている男はドスのきいた声で女にすごんでいる。
女の顔から血の気が引いた。娘はまだ、金を払うべき相手のもとに現れていなかった。だが、前借りした金は、とうに女が使い切っている。
「そそそ、そんなわけないですよぉ〜!あ、ま、まさかまたあの子――」
またあの子、死んだの?死ぬなら終わってからにしてよ…娘に対するイライラが収まらない。
「――どういうことだ、金は返してもらうぞ」
会長の声が、急速に冷たくなっていく。
「ま、待ってください!すぐに連絡つけて向かわせますので!!」
女は何度も娘の携帯に電話をかけたが、繋がらなかった。焦りと苛立ちで、部屋の中を意味もなく歩き回った。
やがて、数人の足音が、女の部屋の前で止まった。
「お前が代わりに、稼いでもらう」
女は連れて行かれた。
「騙されたの!私!あの店主が私に嘘ついたのよ!!助けて!!いやぁあああ!!」
――あわい商店の奥、店主の前に、一つの魂が静かに立った。あの娘だった。
あの晩と同じ、儚げな姿のまま。だが、その表情は、生前どの瞬間にも見せたことのない、穏やかなものだった。
「ありがとうございます、店主様」
娘は、深く頭を下げた。
次元の狭間にたどり着けるのは、生きている人間だけとは限らない。本当にどうしようもない願いを抱えていたのは、母親ではなく、娘のほうだった。
灯りが灯っていたあの数時間、娘の魂は、自分の意思で母のもとへ還っていた。もう一度あの家に立ち、復讐する為に。
娘の魂の傍には死神が立っている。
「これで、ようやく――」
娘はそう呟くと、死神と共に静かに消えていった。娘は輪廻転生の輪から離脱した。店主はその余韻を、しばらく見送っていた。
あわい商店には、値札がない。差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。芯の燃え尽きた小さな灯り——もう二度と灯ることのない、誰かの最後の願いの残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




