Episode 3:『還想時計』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の老人だった。杖をついた手は小さく震え、上着のポケットには、行き先を書いたメモがいくつも詰め込まれている。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
老人は、皺だらけの手で杖を握り直しながら言った。
「もう一度だけでいい。あの夏を、はっきりと思い出したいんだ」
あの夏、俺は十七だった。
幸子と出会ったのは、近所の川辺だった。麦わら帽子を追いかけて転んだ彼女に手を貸したのが、始まりだった。
「ごめんなさい、それ、私の帽子なんですけど」と言われて、俺は間抜けにも帽子ではなく彼女の顔をずっと見ていた。
土手に座り込んだまま笑い合ったあの瞬間から、俺の毎日は彼女を中心に回るようになった。
それから毎日のように、夕方の土手で待ち合わせた。
二人でかき氷を半分こにして、彼女はいつも『シロップが多いほうがいい」と文句を言った。蝉の声、線香花火の匂い、浴衣の裾がふわりと揺れる音――何もかもを、はっきり覚えていたはずだった。
夏祭りの夜、屋台の明かりの中で、俺はようやく気持ちを伝えようとした。彼女の手を握ろうとして、結局、指先が触れただけで終わった。「また明日ね」と笑う彼女に、俺は何も言えなかった。翌週、彼女の家族が急に引っ越すことになり、そのまま連絡が途絶えた。手紙を書いても、届いた様子はなかった。何度も土手に通ったが、二度と彼女が現れることはなかった。
それから六十年以上、俺は結婚もし、子も孫もできた。それでも、あの夏の輪郭だけは、いつまでも心のどこかに残っていた。
最近、その輪郭さえも、少しずつぼやけ始めている。あれは現実ではなく夢なのではないか、そう思うくらいに、彼女の顔が、声が、日に日に思い出せなくなっていく。
「忘れる前に、もう一度だけ――」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「記憶を、もう一度鮮明に生きられる還想時計という、砂時計があります。ひっくり返せば、あなたはあの夏へ還り、五感すべてで、もう一度その日々を過ごせます」
「――なんと。それはいくらだね」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。この歳になれば、失って惜しいものより、取り戻したいもののほうが、ずっと重かった。
「――買おう」
差し出された小さな砂時計を受け取り、ひっくり返した。さらさらと砂が落ちるにつれて、視界が金色の光に包まれていく。
――気づけば、俺は十七の体に戻り、夕暮れの土手に立っていた。隣には、麦わら帽子を被った幸子がいた。
「――待った?」
その声も、笑い方も、当時のままだった。
二人で歩いた土手道、川に映る夕焼け、遠くで鳴る花火の音——何もかもが、六十年前のあの日と寸分違わなかった。
屋台で金魚すくいに挑戦しては二匹とも逃した俺を、彼女は腹を抱えて笑った。「本当に不器用なんだから」とからかいながら、それでも彼女は綿あめを半分こしてくれた。
夏祭りの夜、屋台の明かりの中で、俺は今度こそ、ちゃんと言った。
「好きだ」と。
彼女は驚いた顔をして、それから、耳まで真っ赤にして笑った。
「知ってたよ、そんなの」
彼女はそう言って、俺の手をぎゅっと握った。あの日届かなかった指先が、今度はちゃんと重なった。
線香花火が消える瞬間まで、俺たちは手を繋いでいた。あの夏のすべてを、もう一度、心ゆくまで生き直した。
気づけば、俺は自分の部屋のベッドに横たわっていた。窓の外はもう、あの夏ではなく、今の季節だった。
それからは俺は、いろいろなことを忘れていった。今日の日付、さっき食べた朝食、息子の顔、孫の名前。娘が涙ぐみながら「お父さん」と呼びかけても、俺には、それが誰なのか分からなくなっていった。
娘は、毎週欠かさず見舞いに来てくれていたらしい。俺が誰かも分からなくなった後も、手を握り、昔の写真を見せ続けてくれた。それでも俺の目に浮かぶのは、いつも困惑と、申し訳なさだけだったという。
医者は、急速に進んだ認知症だと言った。家族は、俺が失っていくものを、一つずつ悲しそうに見守っていたらしい。
それでも、あの夏の日の記憶だけは、ずっと胸の奥に残り続けた。記憶は全てあの夏で上書きされてしまった。
孫を見るたびに、『幸子』と呼んだ。ひどく嫌な顔をされた。
それでも俺があまりに優しい声で呼ぶもんだがら、嫌がりながらも孫はボケた爺さんに付き合ってくれた。
俺は、あの夏の中で最期の最期まで幸せな気持ちで生涯を終えた。
俺が死んだ後、娘は遺品の古いアルバムの中から、若い頃の俺が誰かと祭りに写る一枚を見つけた。それが誰かは分からないままだったが、娘は「お父さんは、きっと幸せな夏を過ごしたんだね」と、写真に向かって静かに呟いたそうだ。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。砂の落ちきった小さな砂時計――もう二度と時を戻すことのない、誰かの夏の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




