Episode 2:『揉み消しの香炉』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の男だった。仕立ての良いスーツを着ているのに、髭は伸び放題で、目の下には濃い隈がある。何日も、まともに眠れていないのは明らかだった。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴——どれも値札はついていない。
空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。天井から下がるランプは、灯っているのに影を伸ばさない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
男は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「――半年前のことを、なかったことにしてほしい」
――半年前、俺はバズりたかった。ただ、それだけだった。
当時登録者数が伸び悩んでいた配信のネタに困って、行きつけのファミレスで動画を撮った。共用の醤油差しのノズルを舐めて、そのまま棚に戻す。案の定、動画は伸びた。ただし、笑いではなく、怒りで。
最初の数時間は、むしろ心地よかった。再生数がみるみる伸びていくのを、俺は他人事のように眺めていた。
コメント欄が荒れ始めても、「バズってる」としか思わなかった。店側が被害を訴え、警察に相談したというニュースが出た頃には、もう手遅れだった。
数日で身元が特定された。勤め先、住所、そして家族。ネットの匿名たちは、俺の顔写真の隣に、妻と娘の顔写真まで並べて拡散した。
俺自身は痛くも痒くもなかった。誹謗中傷なんて、画面の向こうの話だと思っていた。
でも、妻と娘は違った。
娘は学校で「あの人の子供」と呼ばれ、机に落書きをされた。ある日、泣きながら帰ってきた娘の上履きには、油性ペンで大きく「消えろ」と書かれていた。
妻の職場にも苦情の電話が鳴り続けた。近所のスーパーでさえ、妻はレジで舌打ちされるようになったと、後になって知った。
娘は次第に学校に行かなくなり、部屋に閉じこもる時間が増えた。妻は俺と口をきかなくなり、リビングにいても、まるで別々の部屋にいるようだった。
それでも俺は、どこかで「そのうち収まる」と高を括っていた。世間の記憶なんて、次の炎上が来ればすぐに上書きされる。そう思っていた。
半年経って、ようやく分かった。収まったのは世間の怒りだけで、家の中はもう、取り返しのつかないところまで壊れていた。
娘の笑った顔を、俺はいつから見ていないだろう。
夜中に一人でリビングに座り、当時の動画のコメント欄を何度も読み返した。「消えろ」「子供が可哀想」——その言葉の一つひとつが、今になって初めて胸に刺さった。
「あの日を、なかったことにできれば――」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「嫌な過去の出来事を、世界から消す香炉があります。焚けば、あなたに関するあの炎上は、無かったことになり過去が書き換えられます」
「――すげぇ。いくらだ」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
俺は迷わなかった。今の生活より失うものなど、もう何も残っていないと思っていた。
「――買う」
差し出された小さな香炉を受け取り、店主に言われるがまま火をつけた。灰色の煙がひとすじ立ちのぼり、部屋いっぱいに広がって消えた。
――気づけば、俺はリビングのソファに座っていた。テレビでは、いつもの夕方のニュースが流れている。
台所から、妻の鼻歌が聞こえた。半年ぶりに聞く声だった。
「お父さん、見て見て!」
娘が駆け寄ってきて、描いたばかりの絵を見せてくれた。俺と妻と娘、三人で笑っている絵だった。クレヨンで塗られた三つの顔は、少しはみ出していたけれど、確かに三人とも笑っていた。
――娘が笑っている。笑って俺に話しかけてくれている。
俺は涙を堪えながら、その絵をリビングの冷蔵庫に貼った。
あの炎上は、本当になかったことになっていた。娘は前と同じように登校する。いじめられていない。
妻も以前と同じだ。家の中には、俺が忘れかけていた温度が戻っていた。
それから一ヶ月、俺は人が変わったように家族サービスに明け暮れた。
ずっと妻に任せていた家事を手伝い始めた。妻は驚いているが、機嫌が良いのでなんだかんだ嬉しそうだ。
娘には、ずっと欲しがっていた自転車を買い、一緒に公園に行って練習にも付き合った。転んで泣きそうになる娘に、妻が「大丈夫、お父さんが見ててくれるから」と笑いかける。
何気ない一言が、俺の胸をいつまでも温めた。
娘は学校の友達の話を、嬉しそうに聞かせてくれた。思えば、俺はずっと家族の話をちゃんと聞いていなかったな…。
夜、食卓をみんなで囲むたびに、俺はこの生活を守れたことに何度も安堵した。
配信はクリーンな配信を心がけた。家族団欒、俺たちは三人で配信をした。
何かを売り込むためじゃない。ただ、笑い合う家族の姿を見せたかった。
コメント欄には「素敵な家族ですね」という言葉が並んだ。画面の向こうから、あの日とは違う優しい言葉ばかりが届いた。
俺は、忘れていた。幸せな日々を取り戻した安堵で、代償を忘れていた。
深夜、コンセントの劣化が原因の火災が起きた。
息苦しさに目を覚ますと、寝室はすでに煙で満たされていた。喉の奥がヒリつき、目を開けているのもやっとだった。
廊下に出た瞬間、熱風が顔を殴りつけてきた。「逃げろ」と叫んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
俺は玄関まで這うようにたどり着いたが、振り返ると、娘の部屋のドアの向こうで、妻の悲鳴が聞こえた。
「今行く――!!!」
声を返したつもりだったが、煙を吸い込んだ喉から出たのは、ただの咳だけだった。
駆け戻ろうとした俺を、誰かの腕が羽交い締めにした。近所の住人だったのか、消防士だったのか、今でも思い出せない。「もう無理だ」という声だけが、耳にこびりついている。
逃げ遅れた妻と娘は、俺の目の前で炎に包まれた家の中に取り残された。俺は二人の名前を叫び続けたが、ただ、燃え盛る家を見ていることしかできなかった。
焼け跡に立ち尽くしながら、俺はようやく理解した。あの香炉の煙の、代償――代わりに大切な物が燃える。
炎上はなくなったが、俺は、本物の炎に家族を奪われた。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。灰の匂いが染み付いた小さな香炉——もう二度と焚かれることのない、誰かの後悔の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




