Episode 1:『声結いの鈴』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の女だった。目の下には、何日も眠れていない者特有の翳りがある。
案内も広告もない店に、彼女がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼女を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭——どれも値札はついていない。
埃をかぶっているようで、触れればどれも新品のように輝きそうな、奇妙な均衡がその一つひとつに宿っている。天井から下がるランプは、灯っているのに影を伸ばさない。空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。
私はしばらく、声を出せずに立ち尽くしていた。ここに来るまでの記憶が曖昧だった。
ただ、透のいない部屋で一ヶ月分の夜を数え続けていたら、気づけばこの扉の前に立っていた、それだけは確かだった。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
「――あの人と、もう一度話したいんです」
私は、震える声でそう告げた。
彼——透は、三ヶ月前に事故で死んだ。仕事帰りの交差点で、信号無視の車に撥ねられて。
その日の朝、私たちは些細なことで言い合いになっていた。休日の予定のことだったか、洗い物の順番だったか、今となってはもう思い出せないくらいくだらないことだった。
それでも売り言葉に買い言葉で、気づけば互いに引けなくなっていた。
「もういい」
私がそう言うと、透は何も言わずに玄関で靴を履いた。振り返りもせず、ドアが閉まる音だけが部屋に残った。
それが、最後だった。
夜、警察から電話が来るまで、私はまだ、帰ってきたら謝ろうと思っていた。いつものように、笑いながら仲直りできると思っていた。
彼と出会ったのは、四年前の雨の日だった。乗り換えの駅で傘を忘れた私に、透が黙って自分の傘を差しかけてきた。
「別に、濡れてもいいんですけど」と言った私に、彼は「じゃあ僕が濡れます」と真顔で答えて、結局二人でひとつの傘に収まった。
それから四年、数え切れないほどの些細な喧嘩と、数え切れないほどの仲直りを重ねてきた。今回だって、いつも通りになるはずだった。
謝りたかった。ただ、それだけだった。
店主は、私の目をまっすぐに見て言った。
「一週間だけ、本物の声で話せる叶え物があります。まぼろしでも、合成された声でもありません。本当に、その人と過ごせる一週間です」
「――っ!おいくらですか!?」
藁にもすがる思いだ。結婚資金として貯めていたお金もある。
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない…」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
私は自分の手のひらを見た。指輪も、彼と選んだ時計も、失っても良い。
今持っている物で、彼と話せるのであれば、失って困る物など何もなかった。
「――買います」
店主から差し出された小さな鈴を受け取った。
――瞬間、目の前が白く光り、気づけば私は自分の部屋のソファに座っていた。そして、隣に――透が、いつものように少し眠そうな顔で座っていた。
「――え」
「久しぶり、って言うのも変か」
その声は、記憶の中の声そのものだった。低くて、少しかすれていて、笑うと語尾が甘くなる。夢でも、幻でもない。触れた手は温かかった。
一週間は、あっという間だった。
一日目、私たちはずっと泣いていた。何から話せばいいのか分からなくて、ただ隣に座って、互いの呼吸の音を確かめるようにしていた。先に泣いたのは私だった。透は何も言わず、ただ背中をさすってくれた。その手のひらの厚みも、記憶のままだった。
二日目、ようやく喧嘩の続きを謝った。彼も、意地を張っていたことを謝ってくれた。「そんなことで、最後の会話にするところだったな」と透は苦笑いした。私はそれを聞いて、また泣いた。
三日目、二人で笑いながらくだらないテレビを見た。彼が好きだった深夜のバラエティ番組。透は相変わらず、つまらないところで声を上げて笑う人だった。
四日目、手を繋いで近所を歩いた。誰にも見えていないのか、擦れ違う人は誰も私たちを気にしなかった。桜のない季節なのに、歩道の桜並木だけがやけに鮮やかに見えた。
五日目、彼が淹れてくれた不味いコーヒーを、私は美味しいと嘘をついて飲んだ。透は「相変わらず嘘が下手だな」と笑った。その笑い方まで、忘れていなかったことに安堵した。
六日目、私たちは抱き合って過ごした。時計の針が進むのが、初めて恐ろしいと思った。
七日目、透は静かに言った。
「多分、明日でお別れだと思う。だから、ちゃんと言っておきたい」
「言わないで」
「聞いて。――ここに戻ってこられて、良かった。喧嘩したまま終わらなくて、本当に良かった」
私は何も言えず、ただ彼の胸に顔をうずめた。心臓の音が聞こえた。生きていたときと同じ、少し速い鼓動だった。
「――ありがとう。君と出会えて、君を愛した人生で、本当に良かった」
彼の輪郭が光の粒になって、部屋の中に溶けていった。私は闇の中に手を伸ばしたけれど、そこにはもう何もなかった。
そして――世界から音が消えた。
目覚まし時計も、換気扇の音も、自分の呼吸の音さえも。テレビをつけても、画面が揺れているだけで何も聞こえない。
私はようやく理解した。これが、――代償だった。
最初の数日は、静寂そのものが恐怖だった。エアコンの作動音も、隣人の生活音も、雨が窓を叩く音も、すべてが唐突に奪われた世界で、私はただ立ち尽くしていた。
友人が心配して電話をかけてきても、画面に映る名前を見つめることしかできなかった。筆談用のノートを買い、少しずつ、音のない生活の輪郭を覚えていった。
それでも、あの一週間を後悔はしていなかった。
三週間後、私は体の異変に気づいて病院に行った。
医師の口は、はっきりと動いていた。紙に書かれた文字も、はっきりと読めた。
――妊娠、九週目。
愛した、透との命――
お腹の中で、これから小さな命が育っていく。でも――その子が初めて発する声も、「お母さん」と呼ぶ声も、笑い声も、泣き声も――私は、一生聞くことができない。
嬉しいはずだった。それなのに、涙は止まらなかった。喜びと絶望が同じ場所からあふれてくることを、私はこの日初めて知った。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。小さな鈴——もう鳴ることのない、誰かの一週間の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




