第三十九話 ヘルハウンド
願望が身勝手ならば、贖罪もまた身勝手である。我々は知的生命体だと思い込んでいるが、自然からすれば単なる生物の端くれに過ぎない。生物の端くれによる贖罪はたかが知れている事だろう。だからこそ我々は自然と物々交換によって何かを得る代わりに何かを支払い、人間があくまで自然の中の一員であることを忘れてはならない。それが贖罪であり、自然界の普通なのだ。人間は神では無いのだから。
散々人間は自然の一部と言っておきながら、人間には人間らしいことがある。それは——。
グルルルルゥゥゥゥ……
溶岩のように赤く滴るよだれを出しながら、こちらを睨みつける黒い猟犬。ジャックは最早人間としての役割を終えているように見えた。
「……おまえ、手懐けるのは慣れていると言ったが、犬飼ってたか?」
「いいや?ただ犬には好かれるから……」
「…逆効果じゃない?」
「おめでとう、ほら、目線的に最初の獲物は貴方だそうよ。じゃ、頑張って」
「えっ」
猟犬は前足で床を前後に撫でながら狙いを莽薙に定める。そのまま助走無しで勢い良く莽薙に噛みつく。莽薙は回避したが、まさかのスピードに漠然としていた。
「こんなの、何回も来られたら餌になっちまうよ……」
『赤城流・龍驤斬り』
猟犬の腹部から斬り上げる。だが、その肌は岩石と言って差し支えない。又、岩石の先にも鉄鋼があるようにも感じる。とにかく血液の一滴はおろか、刃も入らない。猟犬が気にする気配すらもなかった。
「——っ、斬れる気がしねぇ…」
気づいていた様子で、猟犬は勢い良く鋭い爪を赤城に向かって振るった。赤城は刀で受け流すが、近接は不利と感じて間合いを取るために下がる。しかし、猟犬は構わず突進する。
「刀が負けちまうだろうがっ…!」
『獅子奮迅』!
やはり莽薙の刀も中々入らない。そして猟犬は再びこちらに眼光を向ける。結局のところこのままではイタチごっこに変わりない。どこかで打開をしなければならない。
「いつまで逃げるんだ、弱腰騎士団がっ!」
セイビアは逃げている訳じゃない。隙を狙っている。不用心にサラマンダーに近づいてしまうのは避けたいのだ。少し間合いを取って禁じ手を使う。
「……これは規律違反なのでしたくないのですが——。」
そのまま全身の鎧とコートを脱ぎ捨てる。規律では安全の為に任務中は着けなければならない。だが、機動力の上でも熱伝導の面でも不利になる。そこでセイビアは鎧を下ろし、剣を抜く。セイビアはそのまま準備運動で首や足首などの関節を回している。
「技の威力は落ちますのですが、当たらなければ意味ないのです」
「ですですうるせぇな…、休憩は終わったのか?」
「ええ、いつでもオッケーです」
サラマンダーはビリヤードのように壁から壁を高速で渡り、セイビアはそれを目で追いかける。そして行動を予想してサラマンダーよりも早い速度でその地点へ向かう。
『輝く栄光の一角』‼
セイビアの刺突はサラマンダーを貫いた。サラマンダーは驚きの声も出ない。突かれた事にも気づかなかったのだ。しかし、セイビアは一瞬で攻撃の失敗を悟り、剣を引き抜いた。だが、後方に相手の尾がある事を予期できなかった。
んぐぅっ
サラマンダーはセイビアをそのまま壁に叩き捨て、自身の傷を確認した。その傷は梔子姫の時と同じように炎によって治癒していく。不死鳥の力が彼らの身体に何らかの影響を与えているのは確かだった。
対してセイビアは鎧を脱いでしまったが為にダメージは大きかった。彼らのと違って治癒もできない。頭部と左脇腹、左肘の傷が特に痛む。血も滴り、一撃でここまで追い詰められる物なのかと疑問が頭をよぎる。
ぜぇ…ぜぇ…
息をしている、血液が流れている事を確認。自分が剣を放していない事を褒め称えて壁から這い出る。
「惜しかったなぁ…、少しでもお前が早かったら、少しでも俺が遅かったら俺の心臓は死んでいた。運命は私に味方した。」
「……っ、小癪です」
剣はまだ行けそう。ならば問題は無い。自身の体力があれば…。
『穢れなき栄光の剣』‼
セイビアは相手の間合いに瞬時に入り、光を纏いながら剣を斬り上げる。その斬撃はサラマンダーの心臓を捉えて同体共に切り捨てた。サラマンダーは流石に失神し、白目を剥いている。
……はっ、はぁ
セイビアは膝から崩れ落ちる。同時に片手に持っていた剣の刃もボロボロと崩れていく。
「——結局、壊れてしまいましたのです」
セイビアの言うとおり、技の威力に対して剣の耐久性が負けてしまっていた。血みどろになりながらも、サラマンダーに勝利した。
「……とでも思ったか」
「……!?」
背後の声に振り返ると、サラマンダーが何食わぬ顔で立っている。セイビアは酷く絶望して、目の前の恐怖に動く事ができなかった。お構いなしにサラマンダーは首を掴み、セイビアを持ち上げる。
うぐっ、かはっ
セイビアは崩れた刃のない剣で叩くが、そんなものでは傷の一つもつかない。サラマンダーは口を大きく開けて喉の奥を見せる。喉の奥から火の玉が大きくなるのが見えて、セイビアは抵抗をやめた。
「……っ、む、無念……です…」
サラマンダーは容赦なく火炎放射。セイビアは丸焦げになった。
「……とでも思ったか?」
「…!?」
赤城が救援にやってきて、サラマンダーの腕を切り落としていた。セイビアは未だに何が起きているか分からなかったが、赤城がセイビアを起こした時に直ぐに状況を理解した。
「あ、ありがとう、ございますです……」
「礼はいらん、手伝ってやるよ。だが、その剣じゃな……」
「すみませんです、あれだけ先陣を切っておいてこんな仕打ちを…」
「大丈夫だ、これまでの事は感謝する。お前は少し休んでろ。」
言われるがままセイビアは隅で見守る事にした。しかし、セイビアもここで終わろうとはしていなかった。彼女にも一応徹底抗戦の騎士団精神はあるのだ。ふと見ると莽薙は親指を上げていた。そこでこちらも笑顔で同じ親指を返した。
「何してんの、そんな暇ないでしょ!」
「わりぃーわりぃー、集中しようか」
と言っても未だにこの猟犬を鎮める方法は見当たらない。今のところ逃げて逃げて逸らして逃げての繰り返し。鬼ごっこみたいなペースに変わりがない。とは言え、向こうではセイビアがやられた。このまま平行線では増援が来る前に終わる事も考えられる。
やはり止まる事は考えられない。
「ハナミ、援護頼む!」
「え、あ、おっけ」
怒涛の攻撃を避けて花蓮と合流する。背中を花蓮に預け、比較的柔らかいであろう関節部を狙って攻撃を打ち付ける。右前足の関節が曲がる瞬間を狙って刃を振り下ろす。
『狻猊迅雷』
一番遠心力がかかる刀の切っ先から少し下にまで伸びる「物打」と言う場所にだけ集中する。打突の瞬間に確信した。斬れると。
そのまま流すように綺麗に刃を進めると右前足は完全に分断された。だが、ドロドロした赤い体液によって再び完全につながる。続くのはもちろん猟犬の鋭い牙である。
ドスッツ
重たい音と共に花蓮の薙刀が猟犬の上顎と下顎を貫通させる。莽薙はそこから一歩退き、突き刺した薙刀をそのまま花蓮も退いた。猟犬は激しい咆哮と共に激怒の様子を見せた。
「いやぁ……怒らせちゃったか?」
グァァァァァァ‼
貫通した薙刀はその咆哮と共に地面へと落ちた。猟犬は顎が動く事を確認すると、先程の続きのように追いかけ回し始めた。しかし、先ほどよりも速くなっている気がする。迫りくる巨大な火の玉をかわしている雰囲気。気分は正に大道芸。
(よし、ナギ君を狙っている今なら…)
花蓮は薙刀を取りに中央へと足を進める。薙刀を確保し、猟犬の位置を確かめるべく顔を上げる。しかし、そこには猟犬がいなかった。
「花蓮、後ろ‼」
「…っ!?」
大口を開ける猟犬。正に地獄の門番と言わんばかりの迫力に、花蓮は動けなかった。無理に動かそうとした事で花蓮はふらついて立ち上がれなかった。脳裏の走馬灯が巡るが、どれもいい気はしない。
『炎転流星』
莽薙は猟犬の口の中に飛び込む。花蓮は下顎と上顎に挟まれる莽薙を見て安否を確認しようとしたが——。
「……良いから逃げろ!」
そういうので心配しながらも距離を置いた。猟犬は嚙み砕こうと顎に力を入れるが、莽薙もそれに抵抗する。だが、猟犬の口内は灼熱で、莽薙は一刻も早く脱したかった。
グラァァァァア‼
猟犬は口に加えている莽薙を壁に向かって吐き出し、そこに向かって炎を纏って突進をした。追撃による追撃。花蓮は一瞬の出来事に理解が及ばなかった。しかし、砂埃から猟犬が出てきた時に全てを察した。
「……ナギ…君…」
鋭い目つきの猟犬。その先には血を流して動かない腕が見えている。刀は放して取る素振りもない。顔は見えずとも、莽薙の状態は良く察することができた。
「……私は……また…、また……」
花蓮の悲壮感と絶望、トラウマを呼び寄せる。そして新たにこの光景がトラウマとして熱く花蓮の脳裏に焼き付ける。そこで膨れる大きな疑問で胸が張り裂けそうだ。
「誰のための……人生なんだろう…」
精神が崩壊し、恐怖が支配していくにつれて花蓮は鎖に縛られていく。今動かなければならないのは分かっている。だが、呼吸も筋肉も視覚もそれをすることを拒んでいる。花蓮は底のない奈落にひたすら落ちていた。




