第四十話 過ぎ去りし悪夢
私は悪夢を見ていた。きっとそうだった。そしてその悪夢から覚めないでいる。もしその悪夢から覚める事ができたら、次こそはきっと良い夢を見るんだ。
「いつまで寝ている、早く起きなさい」
花蓮は菊水家と言う厳しい家庭環境で育った。毎日少し怒りの宿る言葉で目が覚める。
「早く食べなさい、手伝いをするんだから」
朝食すらゆっくりさせてくれない。父の手伝いをさせられるからだ。だからといって急いで食べると——。
「もっと上品に食べなさい」
と、まあ、無駄とは言わないけど、上品さや高貴さを求めてくる。
「なぜこんなこともできないんだ」
出来損ないの私には菊水家の家業は分からなかった。父の菊水忠は御伽家に雇われ、その腕から出世街道をただひたすらに進んでいた。一般家庭から一気に上り詰めた反動として、私へのヘイトと期待感が高まった訳だ。母の菊水初美もそれに加担している。
確かに辛かった。だけど、家族の事を思えば全く辛くなかった。それに当時は一緒にいて楽しい子がいた。
「お、花蓮ちゃん、あそぼー」
莽薙は当時から自由奔放で、両親も莽薙と遊ぶことは無言を貫いていた。だからこの瞬間だけはとても楽しかった。それに生きがいでもあった。一瞬で過ぎ行く時間に、酷く虚しさが残った事がよくあった。
だが、それらは悪夢の序章に過ぎなかった。私の父が御伽家の命令で地方を任された時、勿論莽薙との時間も奪われることになった。当初は生きがいが一つ失ったに過ぎなかったが、それが悪夢の始まりだった。
「この出来損ないが、こんなこともできないのか」
「期待してるんだから、しっかりやりなさい」
「なぜ貴方はいつも期待を裏切るの?」
「やっぱり女性には無理だったんだ」
「お前が悪い、お前のせいだ」
「花蓮、貴方は菊水家にそぐわない」
「あまり世話を焼かせるな、子供に構ってる暇は無いんだ」
「また同じ失敗を……、呆れる」
「自分の娘をこんなにも卑下したのは初めてだ」
「もう今日は何もしてくれるな」
「迷惑をかけないだけならできるでしょ?」
「遊んでる暇があったら勉学でもしたらどうだ」
「養ってやってんだから、少しは奉仕しろ」
これらの罵詈雑言に対して世間のゴシップは菊水家の評判を上げていく。もはや私は私として生きる意味はなくなった。菊水家のご令嬢として高貴で上品な態度と身だしなみ。自由を謹んで気品のある女性に。テーブルマナーを完全に把握し、会釈の角度も完璧に。容姿も美しくするために運動も欠かさず行い、ドレスコードはいつも覚えておく。物は多くは置かず、過去は切り捨てる。
どれも苦しかった。世間体で言われる「過去」とか「家族」とか「真実」とか「未来」とか。考えるだけで一般的には苦しいとも言われるそれ以外の事でさえも、逆にその苦しみが羨ましかった。両親の理想の為に私は人形にもなるし、サンドバックにもなるし、自慢の娘にもなる。そこに私自身の感情は要らない。ここまでするぐらいならば、世間一般の苦しみぐらい取るに足らないのだと思った。
父が亡くなった後は私が家業を継いだ。自由になれると感じて、父の死には少しばかりの喜びすら覚えた。だが、軍政など知らないはずの母親が口を出し、その失敗をリカバリーするだけの日々。鎖が一つ無くなったとは言え、まだ無数に鎖は入り乱れている。
「あなた、御伽家から手紙よ」
手紙の内容は莽薙の護衛。瑠璃さんは信頼できる私を是非とも連れて行きたいらしい。勿論受領したかった。
「貴方が消えたら円滑に仕事が進まないから」
身勝手な理由で断られた。その時に終わりのない悪夢というものを実感した。だが、長く暗闇に居ると、少しの光も眩しく見える。
「お母さんには了承を貰ったから、行きましょ、花蓮ちゃん」
ここで初めて光を見た気がした。母もさすがの御伽家には逆らえなかったのだろう。久々の彼の顔は面影もありながらも凛々しく、自由奔放。私の憧れの存在のままだった。
「はい、御伽家重臣菊水家の一人娘、菊水花蓮です。覚えておりますか?」
「おお‼久しぶりだな、元気にしてたか?」
「ええ、とっても‼」
培ってきた上品な花蓮像はありもしない事実を作り上げた。別に元気にしてきたことなどない。いつも作業のような日々だった。それに比べ、莽薙は自由な名家の跡継ぎ。彼に対して尊敬、羨ましさがあったのは否めない。この返事は莽薙との再会にかけたそのような願望が入っていたのだろう。その願望も悪夢の前には無力だった。
高天河原で感じたのは自分の非力さ。運動していたとは言え、体力も常にギリギリ。幸いにも培ってきた菊水像によってその苦しみや、居たたまれない感情は彼らの前では隠し通す事が出来た。
鳩海湾で感じたのは両親の偉大さ。今までもそうだが、培ってきた上品さや軍政のノウハウが活かされた。益々自分の存在意義について、自分の心についてよくわからなくなった。
テミスリンブルクで感じたのは自分の能力の低さ。何をしても頼りっぱなし。目まぐるしく変わる展開について行くことが精一杯。足を引っ張っている事が一目瞭然だった。
悪夢は終わったように見えて、ずっと悪夢を見続けていた。いい事が起きたように見えて、悪い展開にしか広がって行かない。私はきっと神に嫌われてしまったのだろう。そんな悪夢が終わるなら、私は彼と一緒にこのまま死に絶えたい。私は何も考えたくない。死んだ方がマシな世界は私の中に存在した。
グルァァァァアアア!
猟犬に好きなようにされても何も感じない。どこから出血しているのかもわからない。何処に居るのか、どこが痛いのか、何がしたいのか、どんな態勢をしているのか、外から見てどんな状態なのか。いや、今までと何も変わらない。知ろうとしても結局分からなかった。誰も教えてくれなかった。所詮、そんな「物」なんだ。私は…。
パッ
後ろの鉄格子から手が伸び、私の腕を固く掴む。その腕はぬばたまのように光っている。
「……ハナミ」
「……!?」
「…たっ……たす…けて…」
ナイトメア。人によってそう名付けられた夜の悪魔による脅威。その脅威は無差別に訪れる。うなされて流されて。梔子姫も現状はそのはず。なのに自分はできることもせずに身を委ねることしかしてこなかった。
腕から何度か見た癒しの炎が花蓮の腕から全身を駆け巡る。その炎は奇しくも人の温もりのように優しい炎だった。先程までどうでもいいと思っていた自分の体が酷く恋しく思った。
……は、はぁ、はぁ
忘れていた呼吸が息を吹き返す。瞼も自然に開き、目の前にあの猟犬が浮かび上がる。ふと右手を見ると、薙刀を固く握りこんでいる。どうやら私は死ぬ事も怖いらしい。
「ハナミ……ガンバレ」
腕は後ろの鉄格子の狭間に消えていく。「悪夢はいつか終わる」と思っているだけでは、悪夢は自分の望むタイミングで終わらせることができない。少なくとも、できることを放棄して待っていてはいけない。生きた方がマシな世界もきっと私の中に存在する。
「悪夢は自分の手で終わらせなきゃ……」
そう言って薙刀を抱えながら生まれたての小鹿のような覚束ない足で起き上がる。きっとこの先が、この結末が「目覚め」であることを信じて。




