第九十六話 氾濫、叛乱
「……オロチは、氾濫する川への恐怖から人間が生み出した神だとも、言われているんだ」
懇願する俺を見つめながら、オロチすらも口を閉ざす空間で不意に声を出したのは、直紹さんだった。
何を、と思いながら直紹さんを見ると、オロチの手のひらを撫でながら直紹さんはヘビの巨大な顔を見つめている。
「オロチの首は本来八俣……その首の数は、川が本来の流れから逸脱し、8つに分かれて数々の山を削り、村を潰したせいだという説もある」
「そういえば、今お前首一個しかないね」
「でも……川の氾濫なんて、本来は、人間さえいなければ、自然の摂理のうちのひとつにしか、過ぎない」
オロチは身体を支えていた二本の手を、直紹さんの前で開いて見せた。
オロチの指は片手で四本──左右で、八本だ。立つのにすら難儀する直紹さんを支えながら、オロチは犬が飼い主に懐くように指先を寄せる。
霧子を切り裂いたはずの恐ろしい爪は、今やバサバサに千切られた直紹さんの髪を切りそろえるための刃物にしか見えなかった。
「川の氾濫を作るのは、人です。人が山を削り、川の流れを無理に歪めて……その結果、山が水を蓄えておけなくなり、不自然に溜まった水が鉄砲水となって本来の容量を越えてしまう」
「あー、なんか聞いたことあります」
「いにしえの……それこそオロチの時代には、あちこちに川があったのだといいます。人は川の側で生きていた。川は人間の一部だった……ゆえに、川が氾濫して困ったのは、人間が自然と共生しているからこそのやむを得ないもの。その畏れを恐れにしたのは、人間が自然を掌握したと思ったからこその、傲慢です」
直紹さんが語っているのは、神話の成り立ち、というやつだろう。
日本人は自然に対する畏れや敬いを神に見立てて信仰する。八百万はそうやって出来たものであり、今後も増え続けるだろう可能性をはらんだものだ。
考え考え語る彼は、オロチの成り立ちそのものを疑問に思って、語りながら自分の考えをまとめようとしているように見える。
オロチは何も言わない。
否定も、肯定もしない。
「……それで?」
「いえ、うーん、別にそれでどうと言うと……オロチ信仰はすでにありますけど、なんでこう、悪いところだけ切り抜かれて語られるようになったのだろうか、といいますか」
「そういえば、オロチを信仰してる神社ありますね」
「うん。実際八岐之大蛇を水の神として崇める場所はちゃんとある。でも、それなのに、オロチは悪者なんだ」
果たして俺達は、八岐之大蛇と言う存在をここまできちんと考えてきたのだろうか。
俺は、子供の頃から八岐之大蛇は素戔嗚尊に倒された悪い八首の大蛇だと教わってきた。
この帝都の地下に居る、その封印を我々が守っている、と聞いてからは、いつかは討祓すべき存在、と認識もしてきた。
しかし確かに、すでにオロチ信仰がある状態で何故、そこまで露悪的に語られてきたのだろう。
全てを八岐之大蛇という恐怖の遺物に押し付けて、自分から目をそらす意図があるような。
「深神家……」
「……やっぱそうなります?」
「深神は水を司る家だから、思う所もあるのかもしれない、けど……」
「深神家は神になりたかった? いやでも、うーん……」
ぽつっと零した先生の一言を、俺と直紹さんはついつい、本当に咄嗟に、否定したくなる。
あの女の本性を知っていても、これからアイツがするかもしれないものを知っていても、「そこまでじゃない」と思い込みたい、ような。
そんな、よくわからない感情だ。
まだ、優しかった頃の「霧子さん」を忘れられていないのだろうか。
しかし霧子は、深神を歴史に刻むと言っていた。
半分人間をやめて、刀主でありながら夜住の性質も持ち、オロチを掌握しようとしていた女。
あの女の持つ術を上手く使えば──帳先生という存在さえなければ、もしかしたら本当に、あの女は神にほど近い存在になっていたの、かも。
「あー、やめやめ。一度考えるのやめっ。そんな事より、ソウちゃんはさっき何を見たの。なんで、自分の命を捧げていいとかほざいたの」
「命じゃないです、目玉です」
「どっちでも同じでしょ。目が見えないってどういう事か、わかってる?」
先生の言葉は、実際に視力を失った側からの重い重い言葉だ。
俺はグッと押し黙って──それでも、決して譲れないものだからとジッと先生を、見た。
先生の目は、俺を、俺の居る空間を見ている。
まるで俺を、値踏みするかのような、「先生」の時の目だ。
「これから、霧子が帝都全土を火の海にします。逃げ惑う者は……寒さで氷にした水で、殺します」
「…………!」
「はぁ……くっそしぶとい……」
「俺はそれを止めたいんです。そのためにこの目が必要なら、俺は捧げてもいいと思っています」
「ただじゃ死なないと思ったけど、マジでクソかよあの女」
先生の言葉は、いつになく乱れている。
それは焦りの証拠で、先生が誰かのために怒っているからこその乱れだ。
俺は、グッと押し黙りながらオロチを見上げた。
オロチは、俺を見ている。
今のオロチの眼窩には眼球はないはずなのに、その視線は、その目は確かに俺を見ていて。
その目が何故かとてもあたたかいような気がして、なんとも複雑な気持ちになった。
『刳るがいい、人の子よ。来たり、帰たり』
オロチが、ずるると首を伸ばして俺達を囲い込み、直紹さんを持っている手で俺と先生もすくいあげた。
掬うのか、救うのか。
どちらにせよ、帝都に巣食うものを焼き払うのには人間の力だけではダメなのだと、その手は言っているような、そんな気がした。
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※オロチの成り立ちは捏造です※
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