桃の節句 六
暑い夏が過ぎ、乾いた涼しい風が吹くようになった。
お雪は奥様のお使いに出かけている。奥様の知り合いが寝込んでいるとのことで、お見舞いの品を届けた帰りだ。
川の土手沿いを歩いていると、淳がまた釣りをしていた。
お雪は一瞬考えたが、いろいろとお世話にもなってご挨拶しないのもと思い、声をかけることにした。本当は淳と話がしたい。
淳に近づき声をかけた。
「先生、こんにちは。」
淳は急に声をかけられ驚いていたが、
「ああ、お雪ちゃんか。こんにちは。お使いかい?」
と優しく返事をした。
「奥様の知り合いの方に、お届け物をしたところです。今日は何か釣れたんですか?」
そう言って、お雪は竹びくの中を覗き込んだ。
竹びくは空っぽだ。お雪があらあらという顔をしていると、
「実は、針には餌をつけていないんだよ。」
淳が頭をかきながら言った。
「どうしてですか?」
お雪が不思議に思い尋ねると、
「何もなしにここに座っていたら、変な人に見えるだろう?釣り糸を垂らしていれば
釣り人に見えるから、誰も変な人だと思わない。」
思わずお雪は手を打った。
「そう言われれば、ただ座っていてはそう思われても仕方ありませんね。」
淳はやっぱりねと苦笑いしている。
お医者様なのに、先生は気さくで親切で茶目っ気もあるんだなと、お雪は思わずクスっと笑った。つられて淳も笑い、穏やかな時間が過ぎてゆく。
「いけない、そろそろ戻らなくっちゃ。では先生、失礼します。」
いつまでも話していた気持ちを振り切って、お雪は黒田家へと戻って行った。
奥様の知り合いはなかなか病状が回復しなかった。奥様は心配し、滋養のあるものをと度々お雪を使いにやった。
赤とんぼが飛び交い、空には筋雲が浮かぶようになった。こんな気候のお使いは悪くない。
今日お雪は団子を持参している。もし淳が釣り糸を垂れていたら、お団子を差し入れする算段だ。予感は的中し、淳はいつもの場所で釣りを?している。
お雪は思わず口元がほころぶ。お医者様に対してなれなれしく失礼だろうか?そんな心のうちをかき消して、お雪は淳に近寄った。
「先生、こんにちは。」
お雪の第一声に淳はいつも驚く。
「ああ、お雪ちゃん。今日もお使いかい?」
嫌がっている風には見えない。
「奥様のお知り合いが、なかなか良くならないようで。滋養のあるものをお届けしているんです。」
「そういうことか。」
お雪は風呂敷からお団子を出し、淳にすすめた。
「先生、もしよかったらお団子いかがですか?」
お雪が遠慮がちに勧めると、淳は嬉しそうに団子を受け取った。
「おっ、美味そうだな。遠慮なくいただこう。」
そういって、美味しそうに団子を頬張る。
「よかった。先生甘いものがお好きなようだったので。」
そう言いながら、お雪は思わず笑顔になる。
淳は団子を食べ終わると、ごちそうさまと礼を言った。
「今日は良かったな。団子を食べられたし、お雪ちゃんにも会えたし。」
えっ、今なんて。そう思うとお雪はカアっと顔が熱くなった。
淳も慌てて、
「あっ、ごめん変なこと言って。別に深い意味はないから。」
そう言ってごまかした。
「じゃあ、これで失礼します。」
何だかいたたまれなくなって、お雪はそそくさとその場を後にした。
淳先生“お雪ちゃんに会えたし”って言っていたよね。どういう意味だろう。そう考えると思わず顔がゆるむ。一人照れながら足早に歩いていたが、次の瞬間ふと我に返った。
淳先生はお医者様。私は両親を亡くし十才から働いている女中だ。住む世界が全然違う。そう思ったら、浮かれていた自分がとてもみじめに思えた。
そうだった。親がいない私を女中として雇ってくれた黒田家のために、いつも良くしてくれる奥様のために一生懸命働くんだった。
頭ではわかっていても、お雪は年頃十九才である。好きになった人と結ばれたいという夢を心の奥深くに押し込め、一つため息をついて家路を急いだ。




