桃の節句 四
ある日のこと、お雪は奥様に頼まれお使いに出かけた。
奥様の知り合いに頼まれたお品を届けた帰り道、川沿いの土手を歩いていると、
長谷川淳が川に釣り糸を垂らしている。
話しかけるのは馴れ馴れしいかとも思ったが、声をかけないのも失礼な気がした。
「先生。こんにちは。何か釣れましたか?」
お雪は思い切って声をかけた。
急に声をかけられ淳は少々驚いている。
「ああ、黒田さんのところの。」
そこで、淳はお雪の名前を知らなかったことに気がついた。
「名前を聞いてもいいですか?」
女中にたいしても丁寧な口調。お雪は一人の人として扱われたことがとても嬉しかった。
「雪と言います。お雪とお呼びください。」
照れくさく、少しうつむきながらそう答えた。
「お雪ちゃんていうのか。黒田家で何度も会っているのに名前を知らなかったな。」
そう言うと思いついたように、
「そういえば、僕は長谷川淳といいます。自己紹介したことなかったね。」
と、爽やかに笑いながら言った。
医者なのに、なんて気さくなんだろう。お雪は淳の人柄に惹かれるものを感じた。
「何も釣れないんだけどね、ここでこうして糸を垂らしながら川を眺めているだけで
気持ちが清々するんだ。」
淳は伸びをしながら言った。確かに日差しも柔らかく、心地よい風が吹いている。
「今日は釣りにはちょうど良いお天気ですね。」
つい話し込んでしまい、お雪ははっとした。
「すみません。せっかくおくつろぎのところを邪魔してしまって。」
「そんなことないよ。お雪ちゃんの名前が知れてよかったよ。」
淳の何気ない一言だったが、お雪は頬が熱くなるのを感じた。
「では、また往診の折宜しくお願いします。」
お雪は丁寧にお辞儀をして家路を急いだ。
梅雨の晴れ間、日差しが強く差し込む中、お雪は庭の草むしりをしていた。
この時期はあっという間に雑草が伸びる。
門から淳が入ってくるのが見えた。今日は往診の日だ。
お雪は立ち上がり手についた雑草を払うと、淳に挨拶をした。
「先生、こんにちは。今日もお世話になります。」
淳は立ち止まり、
「こんにちは、お雪ちゃん。草むしりも大変だね。頑張って。」
と返してくれた。お雪ちゃんと呼ばれ、嬉しくちょっと照れくさい。
それを聞いていたのは小春だ。淳がいなくなるや否やお雪のもとにやってきた。
「ちょっと、さっき淳先生にお雪ちゃんて呼ばれたよね。」
そう言って、お雪を軽く突き飛ばしてきた。
お雪が返答に困っていると、
「いつの間に、淳先生に言い寄ったのよ。このあばずれ。」
そう言って、またお雪を軽く突き飛ばす。
お春は舌打ちし、苦々しい顔でその場を去って行った。
言いがかりだけど、お春はずっと淳先生に熱をあげているから仕方ないか。嫌な思いを飲み込んで、お雪は草むしりに精を出した。
「あー、疲れた。」
草むしりが終わり立ち上がろうとした時、急に立ったせいかクラっと立ち眩みがした。同時に何かがぶつかった。ちょうど通りかかったお春がお雪を突き飛ばしたのだ。
為す術もなくお雪はその場にたたきつけられた。
するとそこに、往診を終えた淳が現れた。あわててお雪の元に駆け寄る。
「お雪ちゃん、大丈夫?ケガは?」
と言ってお雪の顔、手、足元を見回す。見ると肘から血が出ていた。
お雪は慌てて手を引っ込める。
「大したことないから、大丈夫です。」
淳はお雪がひっこめた手を引き戻し、
「血が出ているじゃないか。この時期のケガは化膿しやすいんだよ。中で手当てをしよう。」
そう言うとお雪の手を引いて家に入った。
台所の上がり框にお雪を座らせ、淳はカバンを開ける。薬箱からヨードチンキを取り出した。
「少し、沁みるよ。」
そう言ってお雪の傷口にそっと触れた。消毒液が傷口にしみて、お雪は思わず肩をすくめる。
「ごめん、でもこれで大丈夫だ。」
淳はそう言って丁寧に包帯を巻いた。
窓から梅とツワブキの精がのぞいている。
「何かしたの?」
ツワブキの精に聞かれたが、梅の精はフフフと笑ってるだけだ。
淳は、もし化膿して腫れるようならばすぐに医院に来るようにと言い残し、帰って行った。
お雪に怪我をさせたお春は悪びれる様子もない。
「それくらいの怪我で包帯なんか巻いて、わざとらしい。」
捨て台詞を残していった。




