桃の節句 三
そこへ、ふすまが開いて、スッと長谷川先生が入ってきた。
いつもの洋風な服装ではなく、今日は羽織袴の和服だ。洋装のクロッグはちょっと近寄りがたい雰囲気をかもし出していたが、和装だとぐっと距離が近くなった気がした。
「キャー、長谷川先生!」
向かいから変な声が聞こえてきた。お春だ。ご主人や奥様がいる前で、よくも、まあ。
当然ご主人ににらまれ、おとなしくなったが、もう長谷川先生から目を離さない。
「さあ、長谷川先生、どうぞこちらへ。」
奥様が手招きする。
「いつも、大変お世話になっているから、今日は長谷川先生にも同伴していただきました。」
「ご相伴にあずかり、ありがとうございます。」
ちょっと照れくさそうに長谷川先生がお礼を言った。
「日頃のお礼です。今日はたくさん飲んで、たくさん食べて行ってください。」
ご主人も長谷川先生が来てくれて嬉しそうだ。
長谷川先生とご主人はお酒を酌み交わしながら、難しそうな政治の話などをしている。
お春は長谷川先生に近づきたいのに、ずっとご主人がいて近寄れずイライラしているようだ。
お雪は色気より食い気。お膳の上にはきれいな料理が並んでいる。
前菜は菜の花のお浸し、しじみとわけぎのぬた、赤貝のお刺身。
どの料理もひと手間加えられていて、それは美味しい。
こんなお料理が家で作れたら、奥様やご主人にも喜ばれるだろうけど。そんなことを考えながら食事をしていたら、急にお腹が痛くなってきた。慌ててお手洗いに駆け込む。席に戻って大人しくしていたが、腹痛が治まらない。
「顔色がさえないけど、どこか調子が悪いですか?」
と、長谷川淳が声をかけてきた。
「さっきからお腹が痛くなってしまって。」
そう言うと、お雪は腹痛に背中を丸めた。
「ご主人、女中さんが腹痛の様です。少し奥の間で横にならせた方が。」
淳がそう言うと、主人が頷いて了承した。
あ雪は伊勢谷の奥の部屋に横になった。
「少し帯をゆるくした方がいいでしょう。」
そう言って、淳は軽く帯を緩めてくれた。これだけでも腹痛が少し和らぐ。
「先生、せっかくの食事会に申し訳ありません。」
お雪は申し訳なく頭を下げた。
「病気は所知らず、です。こんなときは気を使わなくていいんですよ。」
一見近寄りがたい雰囲気の淳の優しさに、お雪は心が温かくなった。
皆が食事中、お雪はゆっくりと横になれたので帰る頃には腹痛も治まった。
「お雪はずるいよね。淳先生を独り占めして。」
帰り道、お春はご機嫌斜めだ。お雪が先生に診てもらったのがうらやましくて仕方ない。
「お腹が痛かったんだから、仕方ないでしょう。」
そう言いながら、今日淳の優しさに触れられたことにお雪は喜んでいた。
お医者なんて皆偉そうで苦手だけど、あの先生は優しく接してくれて良い先生だな。お雪は淳に親近感を抱き始めていた。
淳は月に一度黒田家を往診する。
主人の持病を診察し、一か月分の薬を処方していく。
お雪が玄関先をはいていると、淳が往診にやって来た。伊勢谷での食事会以来である。
「こんにちは。その後体調はどうだい?」
「おかげさまで、あの後腹痛も治まりました。先生のおかげです。ありがとうございました。」
お雪がそう言うと、淳は「良かった」とつぶやき玄関に入って行った。
それをこっそりと見ていたものがいる。
黒田家の木や草花に宿る精霊たちだ。
「何だかいい感じ。」
「いい感じね。」
「あの二人がくっつけばいいのに。」
精霊たちは嬉しそうにきゃっきゃっと騒いでいる。
中でも、梅の木とツワブキの精霊はお雪のことを気に入っている。
幼少の折に両親を亡くし、それでもけなげに女中の仕事に励んでいるお雪に幸せになってほしいと願っている。
「よし、この二人がくっつくように応援しよう。」
梅の精が言った。
「もちろんよ。私も加勢するわ。」
ツワブキの精も気合が入っている。




