初詣 四
熱田神宮までは歩いて五分程度。お雪は淳の後をついて歩く。
神社に近づくにつれ人が多くなってきた。神社の鳥居付近はたいそうな人込みで、うっかりするとはぐれそうだ。
淳はお雪を振り返ると、腕を伸ばしてお雪の手をぐっとつかんだ。
「ごめんお雪ちゃん、こうしないとはぐれそうだ。」
体中を電気が走ったようだ。人ごみのせいもあるが、お雪はぽっぽと顔が火照って仕方がない。淳に手を引かれ、人ごみの中を進んでゆく。
誰も私たちのことを知らない。淳先生が医者で私が孤児の女中だなんてこの人たちは知らない。こんな身分違いの二人が一緒にいるなんて知られていない。
このまま、ずっとこのままだったらいいのに。
知らない人達の間をずっと淳先生に手を引かれて歩いていられたらいいのに。
今日ほど自分の出自を悲しく思ったことはなかった。
お雪の目から一粒、涙がこぼれた。
その涙はこぼれ落ちると、キラッと光って散った。
淳に手を引かれ、やっと本殿の前までやって来た。
「やっとついたね。」
淳が手をはなし、爽やかに微笑む。
お雪は微笑んで小さく頷いた。嬉しいこと楽しい時間には必ず終わりが来る。小さい時から苦労しているお雪は、あきらめること期待しすぎないことに慣れていた。
お賽銭を入れて祈りを捧げる。
ご主人が良くなりますように。奥様が心配するようなことが起こりませんように。
そして、今日は嬉しい一日をありがとうございますと、お雪は心の中でつぶやいた。
参拝が済んで裏手にまわると、人混みはだいぶうすれていた。
「まだ時間があるね。お雪ちゃんはどこか行きたいところある?」
淳が優しく尋ねた。
「特にありません。」
参拝が終わったら帰らなくていいのだろうか。黒田家の人以外と出かけることなどないお雪は、どうしたらいいのか見当がつかない。
淳はお雪が少し不安そうなことに気が付いた。
「奥様には、夕方までには送り届けるって約束したから。まだ時間はたっぷりあるね。
じゃあ、僕のおすすめのところに行こう。」
淳は少年のようにニッと笑い歩き始めた。
お雪が後をついていくと、着いた先は甘味処だった。
看板に“甘泉堂”と書いてある。
「ここのお汁粉がうまいんだよ。体も温まるしね。」
そう言うと、淳は木の引き戸を開けて中に入って行った。
簡易な腰掛とテーブルが八つ程ある。初詣の客で店内は賑わっていたが、1席空いていた。
淳が手招きしてお雪を呼ぶ。
淳と向かい合わせで座ると、不思議な感じだ。
私、先生と甘味処に来ているんだ。お医者の先生と、しかもこんなに優しくて素敵な男の人と。こんなこともう一生ないだろうから、今日は楽しもう。そう思うとお雪は吹っ切れた気がした。
「お雪ちゃん、何にする?」
淳は壁に貼ってあるお品書きを見ながら、どれにしようか迷っているようだ。
「先生がさっき、お汁粉が美味しいっておっしゃってたから、お汁粉にします。」
お雪がそう言うと、
「そうなんだよ、お汁粉がうまいんだよ。でもな、甘酒もいいし、団子もいいな。」
少年のようだな、とお雪が微笑むと、淳は照れ笑いをした。
知らない人が見ればお似合いのカップルである。
結局、淳は甘酒と団子を頼んだ。
「お雪ちゃんは、初詣で何を願ったの?」
「ご主人が早く良くなるようにお願いしました。」
お雪はそう言って、熱いお茶に口をつける。
「自分のお願いよりも、ご主人のことをお願いしたんだね。」
淳がお雪を見つめながら言う。
「黒田家にはずっとお世話になっていますから。御恩を返しきれない程です。」
お雪が目を伏せながら言う。
淳は控えめで、主人思いのお雪の優しさに惹かれつつあることに気づく。
それに、晴れ着をきたお雪はとても綺麗だ。色白のお雪に水浅葱の着物が良く似合う。髪もきれいに結い上げて、どこかのお嬢さんといった感じだ。お雪は幼くして両親を亡くし女中となったが、穏やかで優しく芯のある雰囲気がにじみ出るせいか、どことなく品がある。
「お待たせしました。お汁粉は、奥さんの方ですか?」
そう言ってお店の人がお雪の前にお汁粉を置いた。
「奥さんて、」
お雪はうろたえてお茶をこぼしそうになる。
その様子を見て、淳が目を細める。
お雪にとっても、淳にとっても楽しい、夢のような時間だった。
帰り道、お雪は淳の後をついていく。
このまま家に着かなければいいのに。日中の出来事が楽しければ楽しいほど、終わりが寂しいものである。お雪は十九年の人生の中で、一番楽しい一日だったと思った。
「先生、今日は本当にありがとうございました。」
一生忘れません、と言いたいところを飲み込んで、丁寧にお辞儀をした。
淳は何か言おうとしたようだったが、笑顔で軽く会釈をすると帰って行った。
「ただいま戻りました。」
裏口から入り、奥様の部屋の前で声をかけた。
「おかえりなさい、お雪。どう、楽しかった?」
奥様が出てきて、優しく声を掛けてくれた。
「はい。とても楽しかったです。奥様、今日はこんな立派な着物まで着せていただいてありがとうございました。」
奥様のおかげで、今日忘れられない程素敵な一日を過ごせた。そう思うと改めて奥様の心遣いが嬉しくお礼を言いながら涙がこぼれそうだった。
「そうそう。楽しめたようで何よりだったわ。お雪が嬉しそうで私も嬉しい。」
奥様は穏やかに微笑む。
「ご主人様の様子はいかがですか?」
「おかげさまで、もう大丈夫そうよ。気にかけてくれてありがとうね。」
そう言って奥様は部屋に戻られた。




