誤解、そして和解
ボーンボーンと、街の時計台が午後四時を告げる。
夏を惜しむような熱気の中、私は時計台の影で、右手の中指にはめたレジンリングを何度も弄んでいた。
心臓がうるさい。
ハルに伝える言葉は、もう何度も頭の中で繰り返した。
ハル、早く来ないかな……
その時、人混みの向こうから走ってくるハルの姿が見えた。
いつも通りのハル。
けれど、その手には私には配られなかった一枚の青い書状が握られている。
「待たせてごめん、リリィ!」
「ううん、今来たところ。ハル、それ……適性検査の結果?」
そう尋ねると、ハルは少し戸惑ったように、それから少し照れくさそうに笑って、青い紙を差し出してきた。
「ああ。なんかさ……最高ランクの適性があるって言われた。来春から、王都の魔法学校に強制入学だって」
ハルの言葉が、耳の中で非現実的な音を立てて弾けた。
『最高ランクの適性』『王都の魔法学校』。
それは、国中のエリートだけが集まる、全寮制の学校。一般人には手の届かない遠い世界の話だ。
「え……?すごい、じゃない……っ」
お祝いの言葉を言おうとしたのに、声が引き攣る。
つい一週間前、変なおまじないの指輪を作ってくれたハル。プールで同じ水に浸かって、すぐ近くで笑い合っていたハル。そのハルが、急に手の届かない、眩しすぎる『遠い人』になってしまった気がした。
私は地元の医療学校へ行き、ハルは王都のきらびやかな魔法の世界へ行く。
住む世界が変わる。
もう、気安く隣を歩くことすら許されないかもしれない。
こんな私が、彼の足を引っ張るような告白をしちゃダメだ……
ハルの輝かしい未来を、私のちっぽけな恋心で縛りたくない。そう思った瞬間、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を伝って地面に落ちた。
「え、リリィ!?なんで泣いて……」
ハルが慌てて顔を覗き込もうとする。けれど、私はそれ以上顔を見られたくなくて、首を激しく横に振った。
「ごめん、ハル。なんでもないの、本当に……っ。話したいことって、ハルの検査結果のお祝いだったから。……おめでとう。私、もう行かなきゃ!」
嘘だった。言いたいことはそんなことじゃなかった。
私はハルの手を振り切るようにして、背を向けて走り出した。
「待てよ、リリィ!」
ハルの呼ぶ声が遠ざかっていく。
涙で滲む視界の中で、がむしゃらに走った。
一方、取り残されたハルは、差し伸べた手を下ろせないまま、リリィの小さくなっていく背中を呆然と見つめていた。
ハルの脳裏に浮かんだのは、いつか彼女が言っていた言葉だった。
ーー「魔法って、なんだか怖くて苦手だな。私は地道に人の命を救う、医療の勉強を頑張るよ」
ハルはぎゅっと、自分の適性通知書を握りつぶした。
そっか、リリィは魔法が嫌いなんだ……。
だからこそ、自分がその世界の住人になってしまったことが、たまらなく怖かった。彼女があんなに悲しそうに、拒絶するように泣いた理由が、今ならわかる。強力な魔法の素質など、どうでもよかった。リリィを泣かせてしまうような才能なんて、これっぽっちも欲しくない。
手にする青い書状を見つけた同級生たちが、またたく間にハルを取り囲む。あちこちから飛び交う歓声と祝福の嵐。その喧騒の中心で、ハルの心だけが、冷たく沈み込んだままだった。
◇
めまぐるしく季節は巡り、やがて学園の卒業式を迎えた。それぞれの道を歩き出す二人。
ハルが進むのは、黒いローブが翻る王都の全寮制の魔法学校。リリィが進むのは、白いコートが並ぶ地元の医療学校。
交わっていたはずの軌道は、もう二度と交わらないかのように、白と黒の景色へ分かれていった。
◇◇◇
医療学校の最終学年を迎える春、私の毎日は、味気ないほど白一色だった。
消毒液の匂い。分厚い医学書。
実家である父の病院を手伝い、地域医療に身を捧げるのだという強い決意。
それだけが、初恋以来すっかり恋愛ご無沙汰な私の原動力だった。
けれど、勉強に疲れてふと手元に目を落とし、右手にはめた指輪を見るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
それは、四年前——幼馴染の初恋相手であるハルが手作りしてくれたもの。
適性検査の日に告白を諦めてからというもの、二人の関係はほんの少し遠くなった。学園を卒業してからは、忙しさを言い訳に何も連絡できないまま三年の月日が流れてしまった。
もちろん、ハルからの連絡も来ない。
それでも、彼と過ごしたたくさんの時間は、今でも宝物のように私の中で輝いている。
ハルは今、どうしているのかな?
もう一度、ただの幼馴染として普通に会えたらいいのに……
そんな淡い願いは、春の暖かな陽気の中にいつも溶けて消えていた。
◇
ある日、いつものように図書館の片隅で、積み重ねた本に囲まれて、私は一心不乱にノートを取っていた。
静かな館内に、カツ、と洗練された靴音がする。その足音が段々近づいて、私の机のすぐ側でぴたりと止まった。
「……相変わらず、根を詰めて。少しは休憩したら?」
低く、だけど耳に心地よく響く男の人の声。
顔を上げると、そこには見違えるほど大人びた青年が立っていた。
すっきりと通った鼻筋、悪戯っぽく細められた切れ長の瞳。見覚えのある、だけど自分の記憶よりずっと背が高く、色気を纏ったその姿に、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「ハ、ハル……!? 」
「久しぶり、リリィ」
彼はふっと微笑むと、私がペンを握る右手に視線を落とした。
その瞬間、彼の瞳が微かに揺れる。
「それ……まだ、つけててくれたんだね」
「えっ、あ、これ……?」
ハルが嬉しそうに目を細めるのを見て、急に気恥ずかしくなり、袖でリングを隠した。
駄目だ。三年のブランクのせいか、それともハルが格好良くなりすぎているせいか、完全に調子が狂ってしまう。
俯く私に、ハルがそっと囁く。
「……ちょっと、外で話せる?」
顔を見上げると、ハルの真っ直ぐな瞳と目が合った。でも、少し不安げで、余裕のなさそうな表情をしている。
私は小さく頷くと、ハルに手首を軽く引かれ、促されるがままに図書館の外へと連れ出された。
ぽかぽかと暖かい並木道を歩きながら、私は緊張を隠すように、最近見た魔法使いの舞台について熱弁を振るっていた。
「本当にすごかったの! ステージの上で、まるで奇跡みたいに光が舞って……魔法使いって、本当にカッコいいよね」
すると、隣を歩いていたハルが急に足を止め、信じられないものを見るような顔で私を見つめた。
「……リリィ、魔法が好きなの?」
「え? うん、大好きだけど。どうして?」
「だって……前に『魔法は怖くて、苦手だ』って。てっきり、魔法を使える俺のことも嫌いになったのかと思ってた」
ぽつりと零されたハルの言葉に、私は大きく目を見開いた。
「そんなわけない……っ!」
ハルに大きな誤解を与えていたことを知り、居た堪れない気持ちになる。
昔の何気ない言葉をずっと覚えていたなんて。四年間、どんな気持ちでいたのだろう。
今、ここで誤解を解かないと、ただの幼馴染としても、もうハルと会えなくなっちゃうかも知れない。そんなのは絶対に嫌だ…!
「その言葉は……私は魔法が使えないから、現実味がなくて、掴みどころがなくて怖いっていう意味で……本当はずっと魔法に憧れていたの」
「……そうだったんだ」
ハルは一瞬きょとんとした後、耐えかねたようにぷっと吹き出した。それから優しい笑顔で、焦った私の気持ちをほぐすように、私の前髪をくしゃりと掻いた。
「なんだ。四年間、勝手に落ち込んで損したな」
ハルの手がゆっくり離れて、互いに安心したように見つめ合う。
すると、ハルはポケットから一枚のきらびやかなチケットを取り出し、私の手に握らせた。
「……ねぇ、これ、今度ある魔法使いの舞台のチケットなんだけど、一緒に観に行かない?」




