エピローグ
夜の九時半を過ぎた頃、啓文はいつもの飯屋の奥の席に座っていた。
ドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、沈予真だった。
彼女は一瞬、店内を見回し、啓文の姿を見つけると、目を細め、それから柔らかく微笑んだ。
「またお会いしましたね」
啓文が先に言った。
「なんだか、お会いするような気がしていました」
予真はコートを脱ぎながら、啓文の向かいに腰を下ろした。
狭いテーブルを挟んで、二人の間に沈黙が落ちる。
啓文の前には、以前のようにスペアリブと蓮根のスープ。
「周部長、またそれですか。お好きなんですね」
「ええ。まあ。それと、もう部長ではないので」
予真が少し目を丸くした。
「え」
啓文はそれ以上、詳しく語らなかった。
ただ、箸を静かに置いて、湯気の向こうに視線を落とした。
予真も、察するように小さく頷いた。
「沈記者は、またご飯ものですか」
「……私も、もう記者ではなくなるので」
今度は啓文が、わずかに箸を止めた。
啓文は特に踏み込まず、静かに頷いた。
予真は笑みをつくり、
「今日は、同じものをいただきます」
予真は注文を取りにきた店員にスペアリブと蓮根のスープを頼んだ。
二人はしばらく、静かにスープをすすった。
やがて、予真が切り出した。
「星河、辞められたんですか」
「ええ。まあ」
「私も、メディア事業部を離れることになりました」
啓文は、手を止めた。
予真はスープの表面を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「社内の、新部署に誘われて。企業向けにレポートを出す事業部で。
まだ収益の柱とはいえませんが……見出し競争で削られるよりは、向いてるかなって」
自嘲するような響き。
「向いてると思いますよ」
啓文は静かに答えた。
その視線は穏やかで、しかし声は思いのほか力強かった。
まるで、長い時間をかけて、彼女の仕事の奥にあるものを見ようとしているようだった。
予真は思わず胸の鼓動が少し速くなるのを感じ、視線をわずかに逸らした。
やがて、予真が小さく息を吐いた。
「周部長、いえ、周さんって、メディアの経験もおありなんですよね」
「昔の話です」
予真は少し間を置いて、静かに続けた。
「……いっしょに、やりませんか」
啓文は箸を止め、ゆっくりと顔を上げた。
二人の視線が、湯気の向こうで静かに交わった。
「仕事の話ですか」
「もちろん」
予真はすぐに答えた。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
啓文は目を伏せ、かすかに笑った。
「考えさせてください」
「はい」
予真は匙を取った。
「急ぎません」
啓文は箸を置いたまま、しばらくその湯気を見ていた。
街の喧騒が遠く聞こえていた。
店の中だけが、少しだけ、別の時間のようだった。
(了)




