(外伝)星河前史:王国が、まだ小さかった頃
28歳の賀雲舟は、まだ「王」ではなかった。
深圳の工業団地にほど近い、古いビルの5階。
オフィスは、仕切りもほとんどないほぼワンルームだった。
デスクが10個ほど寄せ集められ、夜中でも半分以上の席に明かりがついていた。
人材は集まった。
雲舟の「0.3秒で人を掴む」という言葉に目を輝かせ、若いエンジニアや動画編集者が次々と入ってきた。
しかし、誰も残らなかった。
理由は単純だった。
彼の速度が、異常だったからだ。
雲舟はユーザーの離脱ポイントを、動画の1フレーム単位で見抜いた。
光の落ち方、顔の動きの切れ目、音の間、スクロールが止まる瞬間の微かな違和感——すべてが手に取るように分かった。
深夜3時に突然「この0.7秒が死んでいる」と言い出して、コードを全部書き直させることも珍しくなかった。
一方で、目の前の人間が疲弊していることには、気づくのがひどく遅かった。
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ある深夜、創業から2年目の秋。
初期メンバーの一人、李が辞表を差し出した。
賀雲舟は本気で驚いた。
李は最も信頼を置いていたエンジニアだった。
星河の初期から、推薦アルゴリズムの基盤を一緒に作ってきた、優秀で温和な男だ。
「給料か」
「……違います」
雲舟は辞表を握ったまま、眉を寄せた。
本気で理解できないという表情だった。
「権限か」
「違います」
李は疲れた笑みを浮かべ、静かに首を振った。
賀雲舟は珍しく言葉に詰まった。視線を李の顔に固定したまま、率直に聞いた。
「じゃあ何だ」
李は少し間を置いて、静かに答えた。
「賀さんの速度に、俺がついていけないんです」
雲舟は言葉を失った。
「毎日、言われたことを理解しようと必死で、睡眠時間も削って勉強してる。
でも次の朝には、もう次のステージに行ってる。
……正直、怖いんです。いつか完全に置いていかれるのが」
オフィスの空気が凍りついた。
雲舟は無言で李を見つめていた。
彼にとって初めての、明確な「人間の離脱ポイント」だった。
李は最後に、穏やかだがはっきりとした声で言った。
「賀さんは天才です。でも、このままでは誰もついていけません。 」
オフィスは静まり返っていた。
他のメンバーも、遠くからこの会話を聞いていた。
賀雲舟は辞表をデスクに置き、珍しく長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「……俺は、ただ、いいものを作りたいだけなんだが」
李は小さく笑った。
「星河は、きっと大きくなります。でも……私は、もうここで燃え尽きるのは嫌なんです」
その夜、賀雲舟は朝まで一人、オフィスの明かりをつけたまま座っていた。
画面の中では、まだ未完成のアルゴリズムが、淡々と動画を推薦し続けている。
デスクの上に置かれた李の辞表。
そこに書かれた日付を、彼は何度も何度も見つめ続けた。
王国はまだ小さかった。
王も、まだ若かった。
そして、彼は初めて知った。
ユーザーを0.3秒で掴むことと同じくらい、
人を長く留めることの、途方もない難しさを。
画面の中で、またひとつ数字が跳ねた。
雲舟は顔を上げた。
新しい動画が、見つかろうとしていた。




