王のアルゴリズム(4)
夜遅く、賀雲舟は親のマンションの自室にいた。
ベッドに腰を下ろし、香港とビデオ通話を繋ぐ。
画面に現れた妻は、自宅のソファで優雅に脚を組んでいた。
「そこ、実家?」
「実家っていうか……親の家」
「ふうん。久しぶりに帰ってみてどう?」
雲舟は苦笑した。
「やたら母親が食べさせようとしてくる。ヘチマのスープとか、朝から夜まで延々と」
「ああ、親の愛ってやつね」
ビビアンは小さく笑った。
「ありがたくいただきなさいよ。お母さんなりに心配してるんでしょ」
二人はしばらく他愛もない話を続け、ビビアンが「そろそろ寝なさい」と言うと、通話は終わった。
画面が暗くなった瞬間、部屋の空気が急に重くなった。
雲舟は立ち上がり、居間へ向かった。
ダイニングテーブルの上には新聞が乱雑に積まれていた。
父親が読んだ後のものだろう。彼は何気なくその山をずらした。
——その下から、香港の雑誌の切り抜きが何枚も出てきた。
どれも小鹿の事故に関する報道だった。
星河のプラットフォームで起きた悲劇。被害者の少女。
そして、記者会見で硬い表情で答える自分の写真。
何枚も、何枚も、丁寧に切り抜かれている。
両親は一度も彼に事件のことを訊いてこなかった。
でも、すべて知っていた。
黙って、遠くから見守っていた。
胸の奥が、ずしりと重くなった。
親のために新築マンションを買い、香港に移る時に家族信託を組んだ。
生活費、医療費、将来の介護費用、さらには何かあったときのための緊急資金まで。
特に、親族からの無限の要求を遮断するための仕組み——金銭トラブルを徹底的に防ぐために、考えうる限りの手当てをした。
父母が安心して暮らせるように、できることは全部やった。
ここはもう、片づいた場所のはずだった。
なのに、新聞の下から自分の会見写真が顔を出す。
台所の方から、母親の声がした。
「雲舟、スープまだあるよ」
彼は一瞬、返事ができなかった。
喉の奥が熱くなり、ただ「……もういい」と小さく答えた。
夜の空気を吸いたくて、外へ出た。
広場では、相変わらず若い子たちがスマホを立てて撮影を続けていた。
古い団地の壁と、止まったままの建設現場が背景に広がる中、少女たちが笑いながら踊っている。
そのうちの一人が、工事中のフェンスの上に登り始めた。
危険な高さで、足場も不安定だ。
友達が笑いながら動画を撮り、はやし立てる。
「もっと上!」
「そこまで行け!」
雲舟の体が、本能的に反応した。
一瞬、足が前に出かけた。
心臓が激しく鳴り、小鹿の映像が脳裏にフラッシュバックする。
次の瞬間―――
少女は自分でバランスを保ち、笑いながらフェンスから降りた。
周囲は拍手し、「もう一回撮ろう」と盛り上がる。
事故は起きなかった。
ただの遊び。
もしくは、ただの「目立つための努力」。
雲舟は暗がりに立ち尽くした。
小鹿だけじゃない。
ここも、あそこも、どこも変わらない。
自分も昔はそちら側だった。
この街で、同じように「遠くへ届きたい」と願っていた。
自分の家は星河で変わった。
親を団地から新築マンションへ移し、信託で守った。
そして今、自分が作った星河が、同じような子どもたちを、天秤に乗せ続けている。
胸が、痛いほど締めつけられた。
マンションに戻ると、母親がまだ起きていて、居間の明かりをつけていた。
雲舟は静かに言った。
「明日の朝、香港に戻る」
母親は少し寂しそうな顔をしたが、優しく微笑んだ。
「もう少しいればいいのに……」
「仕事が残ってる」
それ以上、何も言えなかった。
母親は小さく頷き、ただ「気をつけてね」とだけ返した。
雲舟は自室に戻り、ドアを閉めた。
ベッドに腰を下ろした瞬間、喉の奥から抑えきれない息が漏れた。
故郷は変わっていない。
自分が変えたのは、ほんの一部分だけ。
窓の外の街は、静かで、湿っていて、どこまでも重かった。




