第9話 再検証
「本日は、大陸交易条約第七条に基づき、不当な人身引き渡しについて再検証をお願いいたします」
息を吸った。吐いた。
「蛮族の第一夫人、セラフィナです」
大会議天幕。ヴァルグ族の本拠地で最も大きな天幕だ。普段は長老会議に使われている。今日は別の用途に使われている。
到着から十ヶ月。春。
長卓の片側に私とガルドとイレーネ。反対側にアルヴィン王太子と護衛二名と書記官。
卓の上に、茶と、羊皮紙の束と、封蝋のついた書簡が数通。
アルヴィンの顔を見るのは十ヶ月ぶりだった。
痩せた、と思った。頬が削れている。目の下に隈がある。九ヶ月前に手紙を書いた時と、同じ人間には見えない。
でも、同情はしない。
「セラフィナ」
アルヴィンが口を開いた。声も変わっていた。あの広間で「この毒婦を」と宣言した時の、正義に酔った清々しさはない。
「戻ってこい。お前の能力は国に必要だ」
まっすぐだった。飾りがない。
この人は昔からそうだった。嘘をつけない。計算ができない。だから聖女に利用された。
「お気持ちはありがたいのですが」
丁寧に。社交辞令の完璧な笑顔で。
「まず手続きの話をしましょう」
アルヴィンの眉が動いた。手続き、という言葉を予想していなかったらしい。感情の話だと思っていたのだろう。謝れば、頼めば、帰ってくると。
甘い。
「大陸交易条約第七条は、締約国間の人身引き渡しおよび追放について、正当な司法手続きを義務付けています」
羊皮紙を広げた。条約の写しだ。秋の大陸交易会議で正式加盟した際に入手したもの。
「具体的には、独立した証人二名以上、物的証拠、および当該国の最高権力者の裁可が必要とされます」
アルヴィンの書記官が身を乗り出した。条約の文面を確認している。
「私の追放は、これらの要件をすべて欠いています」
指を折った。
「第一に、国王陛下の裁可がありません。陛下はご病気で裁可能力をお持ちでなかった。殿下は摂政権限で執行されましたが、摂政としての正式任命手続きも完了していません」
アルヴィンが何か言おうとした。言えなかった。
「第二に、証人は聖女ルクレツィアと義妹マルグリットの二名のみ。この二名は後に判明した事実により共犯関係にあり、独立した証人の要件を満たしません」
「共犯——」
「第三に、物的証拠がありません。私の部屋から密書が見つかったとされていますが、鑑定はされていません」
書記官の顔が青い。条約の文面と私の指摘を照合しているのだろう。
「ヴァルグ族は昨秋の大陸交易会議で正式加盟国となりました。したがって、条約第七条の保護対象です。加えて、加盟後も王国は追放の是正措置を一切取っておらず、これは条約上の継続的な不履行に当たります」
アルヴィンが椅子の背を掴んだ。
「これは国内問題だ」
「では国内で再審をお願いします」
一拍。
「その間、蛮族との交易条件は現状維持で」
現状維持。
すなわち、王国の北方交易収入はゼロのまま。
アルヴィンの顔から血の気が引くのが見えた。
条約違反の指摘はこれで終わりだ。
ここからが本題。
「もう一点」
イレーネが別の羊皮紙の束を卓に置いた。
「断罪の根拠となった神託について」
アルヴィンの目が書類に落ちた。
「これは、神殿の司祭の帳簿の写しです。聖女ルクレツィアが、断罪の一ヶ月前に司祭へ金貨二百リアを支払った記録があります」
書記官が帳簿に手を伸ばした。震えている。
「こちらは、同じ司祭の署名入りの供述書です。『聖女の依頼により、虚偽の神託を発した』と記されています」
天幕の中が静まった。
アルヴィンは書類を見ていた。一枚ずつ。ゆっくりと。
帳簿の数字。司祭の署名。日付。金額。
長い沈黙だった。
アルヴィンが顔を上げた。目が赤い。
「……これは、本物か」
「裏取りは複数の経路で行っています。入手元の情報も開示できます」
アルヴィンが書類を卓に戻した。
手が震えていた。
十ヶ月前、この手が「毒婦を蛮族に」と指差した。あの時は一切震えていなかった。正義を疑わなかったから。
今は、震えている。
アルヴィンが立ち上がった。
椅子が鳴った。護衛が動こうとしたが、アルヴィンが手で制した。
「僕は——」
声が掠れた。
「調べなかった。一度も。聖女の言葉を疑わなかった。マルグリットの涙を疑わなかった。君の話を、聞きもしなかった」
アルヴィンの目が、私を見た。
あの広間で見た目とは、別の目だった。正義に酔った目ではない。正義が崩れた後の、瓦礫の底にいる人間の目だ。
「……取り返しのつかないことをした」
私は何も言わなかった。
同情もしなかった。許しもしなかった。
ただ、この人が本気で後悔していることは分かった。遅すぎるけれど。遅すぎるということは、嘘ではないということだ。本当に早く気づく人間は、そもそもこんなことをしない。
「セラフィナ。君は、何を望む」
「私の名誉回復は結構です」
アルヴィンが息を呑んだ。
「求めるのは二点。ヴァレンシア公爵家への正式な賠償と、今後の北方交易における蛮族への正当な取引条件の保証」
「それだけか」
「それだけです」
「……君は。戻らないのか」
予想していた問いだった。
予想していたのに、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、胸の奥が揺れた。
公爵令嬢だった頃の自分が、どこかで手を伸ばしている。あの庭園。あの書斎。あの朝食のテーブル。侍女たちの声。父の不器用な手紙。
全部、遠い。
遠くなったのではない。私が遠くへ来たのだ。
「私の居場所はここですので」
静かに言った。
立ち上がって、ガルドの隣に戻った。
椅子に座る。
ガルドの右手が、卓の下で拳を握っていた。強く。骨が白く浮き出るほどに。
何も言わない。
この人はいつも何も言わない。
背後で、かすかに衣擦れの音がした。ユーリヤだ。天幕の入口で腕を組んで立っている。
こちらを見ている。
にやにや笑っている。
なぜ笑っているのか、今の私には分かる。
分かってしまう。
もう「意味が分からない」とは言えない。
交渉は、その後一時間で終わった。
アルヴィンは二点の要求をすべて受諾した。公爵家への賠償は金貨五千リア。北方交易の新条件はエストリアとの直接交易を前提とした価格体系。王国の仲介手数料は撤廃。
書記官が合意文書を起草する間、アルヴィンは黙って座っていた。署名を終えると、立ち上がった。
「セラフィナ」
「はい」
「幸せで——」
途中で止めた。言う資格がないと思ったのだろう。
「失礼する」
護衛と共に天幕を出ていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
あの人はこれから、自分が壊したものと向き合うのだ。一人で。
誰にも同情されずに。
それが罰だとは思わない。ただ、結果だと思う。
天幕の外に出ると、春の風が吹いていた。
雪解けの匂いがする。泥と草と、少しだけ花の匂い。
ガルドが隣に立っていた。
「セラフィナ」
「はい」
「話がある」
金の瞳がこちらを見ている。いつもの無表情ではない。何かを堪えている顔だ。十ヶ月見てきて、初めて見る顔だ。
「今夜でいい。天幕に来てくれ」
声が低い。いつもより低い。今度は気のせいではない。
「……分かりました」
ガルドが歩き出した。
その背中を見ながら、毛皮のコートの襟に手を当てた。
心臓がうるさい。
交渉の時は一度も乱れなかったのに。
ユーリヤが横に来て、肩を叩いた。
「鈍いのは治ったみたいね」
「……うるさい」
ユーリヤが笑った。
私も、少しだけ笑った。
春の草原は、泥だらけだ。靴が汚れる。足元は最悪だ。
でも、空は広い。




