第8話 選択
王太子アルヴィンの執務室に積まれた報告書は、どれも同じ結論を示していた。
北方交易は死んだ。
机の上に広げた月次報告を、もう一度読む。読み直しても数字は変わらない。北方交易路からの収入、ゼロ。三ヶ月連続のゼロだ。その前の三ヶ月は前年比八割減。その前が五割減。九ヶ月かけて、緩やかに、しかし確実に壊滅した。
報告書の端が折れている。何度も読んだせいだ。
「殿下、バルトロス侯爵がお見えです」
侍従の声に顔を上げた。
バルトロス侯爵。聖女派の筆頭。あの断罪の日、穏やかな声で父親を黙らせた男。
「通せ」
入ってきた侯爵の顔色が悪い。以前の余裕が消えている。
「殿下。聖女派の五家から、連名で陳情が上がっております」
「内容は」
「北方交易路の管理を、聖女様から別の者に移すべきだ、と」
聖女様から。
自分たちが担いだ聖女から。
「……九ヶ月前は、あの方に管理を任せることに全員賛成だったはずだが」
「状況が変わりました」
状況が変わった。
いや、状況は変わっていない。最初から聖女に交易路の管理能力はなかった。それに気づかなかっただけだ。
侯爵が去った後、僕は椅子の背もたれに体を預けた。
報告書の山を見る。
この山の中に、答えがあるはずだ。なぜ交易路は崩壊したのか。なぜ聖女には管理できなかったのか。
答えは分かっている。
分かっているのに、認めたくない。
交易路を管理していたのは、セラフィナだった。
あの帳簿を読み、商人と交渉し、関税を調整し、物流を組み立てていたのは、全部あの人だった。僕は知らなかった。知ろうともしなかった。婚約者がそんな仕事をしているとは思っていなかった。
聖女の神託を疑わなかった。
調べもしなかった。
一度も。
「……本当に、セラフィナが国に災いを?」
声に出して言ってみた。
執務室には誰もいない。
窓の外で、鴉が鳴いた。
手紙が届いたのは、草原に春の気配が戻り始めた頃だった。
到着から九ヶ月。天幕の前の雪が溶け始めている。泥濘が靴にまとわりつく。春の草原は美しいが、足元は最悪だ。
イレーネが持ってきた封書は、王国の紋章入りだった。
開く。
——セラフィナ嬢。貴女の罪は再審の上、取り消される可能性がある。帰国されたし。
署名。アルヴィン王太子。
もう一枚。
——帰国すれば名誉回復を保証する。ヴァレンシア公爵家の復権も検討する。
便箋を卓に置いた。
茶の湯気が、便箋の上を通り過ぎていった。
「妻たちを呼んでもらえる?」
十分後。後宮の天幕に全員が集まった。
手紙を回し読みさせた。
最初にナディアが口を開いた。
「殺そうとした人間がよく言う」
短剣の柄を叩いている。怒っている。ナディアが怒ると短剣を叩く。ここ九ヶ月で覚えた癖の一つ。
サーシャが手紙を裏返した。何か裏に書いてあるのかと思ったらしい。何もない。
「帰ったら交易どうなるんですか。来期の予算、組んだばかりなんですけど」
「サーシャ、論点そこ?」
「だって、エストリアとの黒貂の大型契約、来月締結なんですよ。今帰られたら全部やり直しです」
ユーリヤが腕を組んだ。
「あんたの代わりはいないの。帳簿はサーシャが回せるけど、交渉と調整は無理。あと、孤児たちが泣く。リーナが泣く。あの子が泣くと私も困るのよ」
最後にイレーネ。
「王国の外交力はゼロ。この手紙自体が証拠よ。帰国すれば名誉回復、甘い言葉ね。帰った途端に軟禁して、再審なんてさせないつもりでしょう。あるいは聖女がまた別の手を打つ」
四人の目が私を見ている。
怒っている。心配している。計算している。呆れている。
全部混ざっている。
「……ありがとう。少し考えさせて」
「考える余地あるの?」
ナディアの声に棘がある。でも、棘の奥に別のものがある。
「ある。私の問題だから」
ガルドの天幕に行った。
入口の布をめくると、ガルドは卓の前に座っていた。地図を広げている。春の移動ルートの確認だろう。遊牧民は季節ごとに天幕群を移動させる。
「話がある」
「聞いてる。手紙の件だろう」
もう知っていた。当然だ。イレーネ経由か、副官経由か。
手紙を見せた。ガルドは一読して、卓に戻した。
「で、どうする」
「それを、相談しに来た」
「俺に?」
「あなたの意見を聞きたい」
ガルドが椅子に背を預けた。
しばらく黙っていた。地図の端を指で撫でている。
「お前の人生だ。お前が選べ」
短い。いつも通り短い。
でも、声が違う。
いつもの平坦さではない。抑えている。何かを、意識的に抑えている。
前の人生で何百回も聞いた声だ。交渉の席で、本音を隠している人間の声。
ただ、この人は本音を隠しているのではない。本音を出すまいと堪えている。
手放す覚悟の声だ。
私は、椅子に座ったまま、ガルドの横顔を見た。
金の瞳は地図を見ている。私を見ていない。見ないようにしている。
気づいてしまった。
今まで別のものだと思っていたものが、全部。
いや。
今は、それを考えるな。
「……ありがとう。考える」
天幕を出た。
外の空気が冷たかった。春の空気のはずなのに、冷たかった。
その夜、眠れなかった。
毛皮の上に横になって、天井を見ている。天幕の布が風に揺れている。二重張りの天幕。誰かが。いや、もう分かっている。分かっていることにしたくないだけだ。
前の人生では、必要とされたから残った。
国際機関の仕事。紛争地の調停。誰かが困っているから行く。必要とされているから留まる。必要とされなくなったら、次の現場へ移る。
そうやって生きて、そうやって死んだ。一人で。
今の人生でも、同じだった。
婚約者に必要とされていると思っていた。公爵家に必要とされていると思っていた。必要とされなくなった途端に、捨てられた。
ここでも同じなのだろうか。
交易に必要だから残っている。後宮の調整に必要だから残っている。必要とされなくなったら。
違う。
天幕の天井を見つめた。
違う。
帰りたくないのだ。
王国に帰りたくない。
名誉回復なんていらない。公爵家の復権もいらない。
ここにいたい。
この天幕で目を覚ましたい。ナディアの焦げた朝食を食べたい。サーシャと帳簿を見たい。ユーリヤに鈍いと言われたい。イレーネと情報を交換したい。リーナに星の話を聞きたい。
ガルドの隣に座っていたい。
あの無表情の横顔を見ていたい。短い言葉を聞いていたい。黙ったまま馬を引いてくれた百歩を。
「必要とされたから」ではない。
「私がここにいたいから」だ。
初めてだった。
前の人生でも、今の人生でも。
自分の感情で、居場所を選ぶのは。
涙は出なかった。
代わりに、深く息を吸った。二重張りの天幕の中の空気。毛皮と煙と草の匂い。九ヶ月かけて馴染んだ匂い。
私の匂いだ。もう。
翌朝。
ガルドの天幕に入った。
昨日と同じ席にガルドが座っている。地図はもう片付けられていた。
「和平交渉に出席します」
ガルドが顔を上げた。
「ただし、蛮族の第一夫人として」
一拍。
ガルドの目が開いた。ほんの一瞬。石像が瞬きをしたみたいに。
すぐに戻った。いつもの無表情に。
「わかった」
一言だった。
でも、その一言を言う前に、拳が、卓の下で握られていたのを、私は見た。
見てしまった。
見なかったことには、もうできなかった。




