第7話 刃
闇の中で金属音がした。
短い。硬い。刃と刃がぶつかる音だ。
天幕の外。すぐ近く。
体が動く前に、頭が動いた。天幕の入口は一つ。裏側の布は二重張りだが、切れば入れる。入口を塞がれたら逃げ場がない。
武器がない。
当たり前だ。私は剣を持っていない。持っていたとしても使えない。
布が裂ける音がした。
天幕の横の壁を、外から刃物が引き裂いた。冷たい夜風が噴き出すように入ってきて、裂け目から黒い影が滑り込んでくる。
人だ。
小柄で、速い。
悲鳴は出なかった。出す余裕がなかった。体が固まっている。足が動かない。逃げろと頭が叫んでいるのに、膝が言うことを聞かない。
影が短剣を構えた。
刃が篝火の残り火を反射して、一瞬だけ光る。
「——伏せろ」
声と同時に、天幕の入口の布が引き千切られた。
ガルドだった。
影とガルドの間に、私がいる。
逃げろ。動け。動け。
動けなかった。
ガルドが私の頭を押さえて屈ませ、その上を影の短剣が通過した。風圧が髪を撫でた。
ガルドの腕が影を薙ぎ払う。影が天幕の壁に叩きつけられる。
同時に、ガルドの肩から何かが飛んだ。暗くて見えない。でも、匂いがした。鉄の匂い。
血だ。
天幕の外で、ナディアの声が聞こえた。
「二人目、確保。三人目は——族長、中に入った?」
「片付いた」
ガルドの声は平坦だった。息も乱れていない。
肩から血を流しているのに。
影、刺客は、天幕の隅で動かなくなっていた。気絶しているだけだと思いたい。
ガルドが私の方を向いた。
「怪我はないか」
先にそれを聞くのか。
肩から血を流しているのに。
「ない。あなたの肩——」
「たいした傷じゃない」
左肩の上着が裂けている。切り傷だ。深くはなさそうだが、布が赤く染まっている。
「たいした傷じゃないって、血が——」
「掠っただけだ」
ガルドの右手が私の肩に触れた。押さえつけるのではなく、確かめるように。骨がないか、傷がないか。指先が首筋の近くまで辿って、止まった。
「……ない。本当にないな」
確認するように呟いて、それからようやく自分の傷に目を向けた。
順番が違う。
自分の傷より先に私の体を確認している。
なぜだろう。考えたくない。考えると、昨夜の篝火のことを思い出してしまう。耳の縁の赤みを。「まだ渡してない」を。
ナディアが天幕に入ってきた。短剣を二本持っている。どちらも血がついている。
「三人。全員確保。外の二人はあたしが落とした。こいつで三人目」
倒れた刺客を見下ろす目が冷たい。元暗殺者の目だ。
「殺してない?」
「殺してない。聞き出すことがあるでしょう」
ナディアの判断は正しい。
夜が明けるまでに、分かったことがある。
ナディアが刺客の一人を尋問した。私は立ち会わなかった。ナディアが「見ない方がいい」と言ったので、それに従った。元暗殺者の尋問術が穏やかであるはずがない。
結果だけ聞いた。
「聖女の使者から依頼された。金貨五十リアで。蛮族の第一夫人を始末しろ、と」
五十リア。
平民の月収十ヶ月分。令嬢のドレス一着分。
私の命の値段は、ドレス一着らしい。
「安い命だな」
ナディアが言った。皮肉ではない。事実の指摘だ。
「依頼主との連絡手段は?」
「王国の裏社会の仲介人を通じてる。仲介人の名前は吐かせた。イレーネ、記録した?」
イレーネが羊皮紙に書き付けながら頷いた。
「聖女との繋がりを示す物的証拠が一つ増えたわね。父上の調査記録と合わせれば——」
「まだ足りない」
私は言った。
「仲介人の証言と刺客の自白だけでは弱い。聖女本人と仲介人の金銭授受の記録が要る」
イレーネが顔を上げた。
「ナディアの旧知、あの情報屋に頼めば」
「時間はかかるけど、取れなくはない。司祭の帳簿か、仲介人の台帳か。どっちか押さえれば裏が取れる」
頭は動いている。前の人生の危機管理が起動している。情報を整理し、証拠の優先順位をつけ、次の手を考える。
頭は動いている。
でも、手が震えている。
膝の上に置いた両手が、小さく震えている。止められない。
死ぬところだった。
あの短剣は、私の喉を狙っていた。ガルドが来なければ。
「セラフィナ」
ユーリヤの声だった。いつの間にか天幕に来ていた。
「あんた、顔が白い。少し寝なさい」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。手、見なさいよ」
膝の上の手を見た。まだ震えている。
「……少しだけ」
横になった。毛皮のコートを掛けてくれたのは、ユーリヤだった。
昼過ぎに目が覚めた。
天幕の外が騒がしい。でも昨夜のような緊迫した気配ではない。日常の音だ。子どもの声。鍛冶の音。煮炊きの匂い。
ユーリヤが天幕の入口に座っていた。子どもを膝に乗せて、何か縫っている。
「起きた?」
「……うん」
「あんたのために一つ教えておく」
針を動かしながら、ユーリヤが言った。
「昨夜、族長があんたの天幕の前に座ってたわよ。朝まで」
「え?」
「あんたが寝た後。ナディアが護衛を倍に増やしたのに、その上で族長自身が天幕の前に座ってた。副官が『護衛は十分です』って言ったら、『足りない』って返したらしいけど」
足りない。護衛が。
「ナディアを含めて八人よ。あんたの天幕の周りに。それで足りないってのは、さすがに無理があるわ」
ユーリヤの針が止まった。こちらを見る。
「護衛が足りなかっただけでは——」
「あんた、鈍いわね」
まっすぐ言われた。
呆れとも愛情ともつかない声で。
「鈍い?」
「鈍い。びっくりするくらい鈍い。交渉は天才なのに、こっち方面はからっきしね」
こっち方面。
「……何の話をしているのか、分からないということにしておきます」
「好きにしなさい」
ユーリヤは縫い物に戻った。膝の上の子どもが、私を見て手を振った。リーナだ。
手を振り返した。
夕方。
天幕の外に出て、空を見上げた。
昨夜と同じ星が出ている。同じ篝火の跡が、灰になって残っている。祭りの余韻はもうない。代わりに、鉄の匂いが記憶の底に残っている。
ガルドの肩の傷は浅かった。ユーリヤが手当てをして、ガルドは翌朝には普通に動いていたらしい。「普通に」というのがこの人の基準で言えばだが。
私は無傷だ。
無傷。
何もできなかったから、無傷。
ガルドが庇ってくれたから、無傷。
交渉はできる。帳簿は読める。言葉は覚えられる。
でも、あの瞬間、私は立つことすらできなかった。
刃の前で膝が動かなかった。
あの人が血を流しているのを、見ていることしかできなかった。
私は、この人を守ることができない。
それが、刺客の短剣より深く刺さっている。
天幕に戻った。
毛皮のコートを畳んで、枕元に置いた。明日は、ナディアに護衛の再配置を相談しなければならない。
できることを、やるしかない。




