第6話 篝火
草原が燃えているのかと思った。
地平線まで篝火が続いている。炎の列が、夜の草原を橙色に染めている。空気が煙と獣脂と焼いた肉の匂いで満ちていて、どこからか太鼓の音が聞こえる。低くて、腹の底に響く音だ。
ヴァルグ族の冬至大祭。
年に一度、周辺の友好氏族も集まる部族最大の行事。
到着から七ヶ月目。初冬。
「セラフィナさん、東の焚き火台の薪が足りません」
「バイカル族の族長が到着しました。席は——」
「子どもたちが馬の柵を壊しました」
「肉が焦げてます」
四方から声が飛んでくる。
祭りの運営を仕切るのは第一夫人の仕事だと、ユーリヤに押し付けられた。いや、任されたと言うべきか。
「薪はナディアに手配を頼んで。バイカル族の族長はガルドの右隣に。子どもたちはユーリヤに任せて。肉は——誰が焼いてるの」
「ナディアです」
「……火を弱くして、と伝えて」
ナディアの料理は味つけだけでなく火加減も荒い。
走り回りたいところだが、体力がない。だから椅子に座ったまま指示を出す。前の人生では国際会議のロジスティクスを回したことがある。四百人規模のカンファレンスに比べれば。いや、比べるものではないか。あっちには火も馬も太鼓もなかった。
サーシャが走ってきた。頬が赤い。
「セラフィナさん、ルグ族の商人が来年の交易について話したいって」
「祭りの最中に商談?」
「遊牧民はそういうものらしいです」
「……イレーネに繋いで。商談はあの人の方が上手い。私は——」
足元で何かに裾を引かれた。
見下ろすと、ユーリヤの孤児の一人だった。五つくらいの女の子。名前はリーナ。目が大きくて、いつも鼻の頭が赤い。
「セラおねえちゃん、あのね、おほしさまがね、おちてきたの」
「落ちてきた?」
「あっちに。きらきらしてた」
篝火の火の粉だろう。
「後で一緒に見に行こうね」
「うん」
リーナが走っていった。
サーシャが、その背中を見ていた。
「セラフィナさん」
「何」
「……私にも、こういう居場所を作ってくれたの、セラフィナさんですよね」
声が小さかった。祭りの喧騒に紛れそうなくらい。
「場所を作ったんじゃないわ。あなたがもともといた場所に、名前をつけただけ」
サーシャは何も言わなかった。ただ帳簿を胸に抱えて、少しだけ笑った。
笑うと年相応に見える。この子はまだ二十歳なのだ。
祭りが深まるにつれて、喧騒は緩やかに酔った笑い声に変わっていった。太鼓の音が遠くなり、篝火の数が減り、子どもたちは天幕に帰された。
私は大きな篝火の傍に座っていた。足が重い。一日中動き回って、いや、座り回って指示を出し続けた疲れが、全身に溜まっている。
隣に、ガルドが座った。
いつ来たのか分からなかった。足音を立てない男だ。あの体格で。
しばらく、二人とも黙っていた。
篝火が爆ぜる音だけが聞こえる。火の粉が上がって、夜空に消えていく。リーナが見た星は、これだったのだろう。
「祭りは、親父が好きだった」
ガルドが言った。
前触れもなく。篝火を見たまま。声は低い。いつもより、少しだけ。
「先代が?」
「ああ。毎年、準備を全部仕切ってた。俺は、手伝わされるのが嫌で、馬に乗って逃げてた」
想像してみた。少年のガルドが、馬に乗って草原を駆けている。
少しだけ、笑いそうになった。
「母は俺が生まれてすぐに死んだ。親父が一人で育てた」
篝火の炎が、ガルドの横顔を照らしている。金の瞳に炎が映っている。
「二年前に死んだ。戦で。俺が隣にいたのに、守れなかった」
声が平坦だ。感情を消しているのではない。感情の乗せ方を知らないのだと思う。この人は、悲しみも怒りも、全部同じ声で話す。
「戦うことしかできない。交渉も、帳簿も、祭りの準備も、何一つ。親父は全部やってた。俺には、何もない」
何もない。
この男が。大陸最強と呼ばれる男が。
「母の形見がある」
唐突だった。
「銀の首飾りだ。親父が持ってた。『お前の番が見つかったら渡せ』って、遺言で」
番。部族語で「魂の伴侶」を意味する言葉だ。
「まだ渡してない。誰にも」
篝火が爆ぜた。
大きな火の粉が上がって、夜空に吸い込まれていった。
私は何を言えばいいか、少し迷った。
慰めの言葉はいくらでも思いつく。前の人生で、そういう言葉を職業的に使ってきた。でも、この人に職業的な言葉を使いたくなかった。
「あなたの父上は、誇りに思ってると思いますよ」
ガルドが初めてこちらを見た。
「戦えるだけじゃなくて、頭を下げて、人に任せることもできるでしょう。交渉は私に任せた。帳簿はサーシャに。情報はイレーネに。護衛はナディアに。全部、あなたが任せた」
言いながら、自分でも少し的外れかもしれないと思った。慰めになっているのかどうか分からない。
「それは弱さじゃないです。信じて託せるのは、強さです」
ガルドが目を逸らした。
篝火の方へ。
横顔の、耳の縁が赤い。
火のせいだろう。この距離で篝火に当たれば、耳が赤くなるのは当然だ。
しばらく、何も言わなかった。
篝火の音と、遠くの馬のいびきだけが聞こえる。
「……祭り、うまくいったな」
「おかげさまで。ナディアの肉だけ焦げましたけど」
「あれはいつもだ」
笑ったのだろうか。口の端が動いた気がしたが、確信はない。この人の笑い方を、私はまだ知らない。
天幕に戻ると、イレーネが待っていた。
手に、封書を持っている。
「あなた宛てに届いたわ。うちの情報網を経由して。差出人は、ヴァレンシア公爵」
父。
封を切る手が、少しだけ震えた。
手紙は短かった。父らしい、飾りのない文字が並んでいる。
——娘を守れなかった不甲斐ない父を許してくれ。だが、調べは続けていた。
同封されていたのは、数枚の紙だった。神殿への不審な金の流れを追った調査記録。断片的だが、方向ははっきりしている。
聖女。神殿。金。
「お父様……」
声が詰まった。
守ってくれなかった、と思っていた。見捨てられた、と思っていた。
でもこの人は、あの広間で黙らされた後も、一人で戦っていたのだ。不器用に。言葉ではなく、帳簿と記録で。
ああ、そうか。私と同じだ。
涙は出なかった。出し方を忘れている。代わりに、手紙を丁寧に畳んで、胸元にしまった。
「使えそう?」
イレーネが聞いた。声は事務的だったが、目は少しだけ柔らかかった。
「まだ断片的。でも、方向は見えた。裏取りが必要」
「ナディアの旧知に当たってみましょうか。王国の裏社会に繋がりがある人がいる」
「お願い」
イレーネが頷いて、天幕を出ていった。
一人になった。
手紙の角が、胸元で少しだけ固い。
父の文字を思い出す。癖のある筆跡。右上がりで、横線が長い。小さい頃、この字で書かれた手紙を受け取るのが好きだった。
いつから嫌いになったのだろう。嫌いになったのではなかった。期待しなくなっただけだ。
天幕の外で、風が鳴った。
祭りの余韻が遠くに残っている。誰かが歌っている。部族の歌だ。歌詞はまだ全部は分からない。でも、旋律は覚えた。
寝る支度をしようと立ち上がった時、天幕の布が揺れた。
風ではない。
外に、影がある。
人の形をした影が、天幕のすぐ傍に立っている。
声を出す前に、別の方向から金属音がした。低く、短い音。
ナディアの声がした。抑えた、鋭い声。
「動くな」
影が動いた。
ナディアが動いた。
私は天幕の中で、息を止めていた。
毛皮のコートの襟を、無意識に握っている。
草原の夜が、一瞬で冷えた。




