第5話 会議
大陸交易会議の会場は、五カ国の国境が交わる交易都市ルクセリアの中央議事堂だった。
石造りの建物に入るのは五ヶ月ぶりだ。草原の天幕に慣れた体には、石の床が硬い。靴の底を通して冷たさが伝わってくる。天井が高い。窓がある。壁がある。
壁があるというのは、逃げ場がないということだ。
会議室は長卓を囲む形式で、各国の代表団に三席ずつ割り当てられている。王国。エストリア。フェルディア公国。南方連合。東方帝国。
そして今年から、ヴァルグ族。
正式加盟は私が根回しした。エストリアとの直接交易で実績を作り、フェルディアに仲介を依頼し、オブザーバー枠から正式枠への格上げを会議の議題に載せた。三ヶ月かかった。
ヴァルグ族の席に着く。
私の右にガルド。左にイレーネ。
ガルドは落ち着かない様子を微塵も見せていないが、それは表情が読めないだけだ。朝、出発前に彼が馬の鞍を三回確認していたのを私は見ている。あれは緊張だ。戦場では一度も見せない癖が、会議の朝に出ている。
この男は、剣を持てば大陸最強かもしれないが、長卓の前では借りてきた猫に近い。
「交渉は全て任せる」
着席する前に、ガルドが短く言った。
「はい」
「俺は座ってるだけでいい」
「座っていてください。あなたが座っているだけで、十分な交渉材料になりますから」
ガルドが一瞬、怪訝な顔をした。
嘘ではない。大陸最強の騎馬軍団の長が、黙って隣に座っている。それだけで、相手は交渉条件を一段落とす。武力を使わない武力の使い方だ。
各国の代表が着席していく。
王国の席に目をやった。
使節団の長は、宮廷財務官のトーマス卿。五十がらみの男で、髭が立派で、腹も立派だ。婚約者時代に何度か顔を合わせている。帳簿を見せろと言っても「令嬢に難しいことは」と笑って逸らした男だ。
あの帳簿、私が全部読んでいたとは思っていないだろう。
トーマス卿が、こちらに気づいた。
動きが止まった。
隣の書記官に何か耳打ちしている。書記官の顔が青くなる。
「……セラフィナ、様? いや、蛮族の——」
「第一夫人のセラフィナです。以後お見知りおきを」
丁寧に。にこやかに。王宮仕込みの完璧な社交辞令で。
トーマス卿の額に汗が浮いた。
議事が始まった。
退屈な前半を省く。各国の交易報告、関税の微調整、港湾施設の修繕費分担。こういう会議はどこの世界でも似たようなものだ。前の人生でも、本題に入るまでの二時間が一番つらかった。
本題。北方交易路の再編について。
私が立った。
「ヴァルグ族は、北方産品の新たな交易ルートを提案いたします」
卓上に地図を広げた。サーシャが清書してくれたものだ。インクの色が三色使い分けられている。几帳面な子だ。
「従来の王国経由ルートに代わり、南方迂回路を用いた直接取引を——」
「待ってくれ」
トーマス卿が遮った。
「北方交易路は王国が管理する利権だ。それを迂回するというのは——」
「利権」
私は繰り返した。穏やかに。
「失礼ですが、トーマス卿。利権とおっしゃいますが、その管理者は現在どなたが務めていらっしゃいますか」
沈黙。
「以前はヴァレンシア公爵家が三代にわたって管理しておりました。私も、婚約者時代に実務を担当しておりました。ですが、私は半年前に追放されています。その後の管理者を——」
一拍置いた。
「教えていただけますか?」
トーマス卿が口を開いた。閉じた。また開いた。
「聖女様が……引き継がれて……」
「聖女様。なるほど。現在の北方交易路の取引実績を、この場でご報告いただくことは可能ですか」
トーマス卿の顔から血の気が引いた。
隣のエストリアの代表が身を乗り出した。
「ヴァルグ族の提案を聞きたい。直接取引の条件は?」
こちらのものだ。
私は地図に指を置いて、価格体系の説明に入った。数字はサーシャと三日間かけて詰めたものだ。
ところが、エストリアの代表が途中で手を挙げた。
「銀狐の単価はいい。だが、輸送の安全保障はどうする。迂回路は王国の管轄外だ。盗賊が出たら誰が責任を取る」
想定していなかった。
いや、想定はしていた。だが、この場で具体的な数字を求められるとは思っていなかった。護衛費用の試算はサーシャの帳簿に入れていたが、安全保障の枠組みとなると別の話だ。
口を開きかけて、止めた。
ここで曖昧な回答をすれば、提案全体の信頼性が揺らぐ。
「正直に申し上げます。輸送の安全保障については、現時点で具体的な枠組みをお示しできません」
トーマス卿の目が光った。弱みを見つけた、と思ったのだろう。
「ただし」
私は続けた。
「ヴァルグ族は大陸最強の騎馬軍団を擁しています。迂回路の護衛を蛮族側が担い、その費用を取引価格に含める形で、次回会議までに具体案を提出いたします。本日は価格体系の合意を先に進めさせていただきたい」
隣で、ガルドが微かに頷いた。軍事力の提供。それなら自分の領域だ。
エストリアの代表が考え込み、やがて頷いた。
「次回までに具体案を。それで構わない」
危なかった。
心臓がまだ速い。でも、顔には出さない。
二日目の午後、閉会後。
回廊を歩いていると、フェルディアの代表が声をかけてきた。初老の女性だ。鷲鼻で、目が鋭い。
「蛮族がこれほどの交渉者を擁しているとは思わなかった」
「買いかぶりです。安全保障の件では冷や汗をかきました」
「それを認められるのも才能よ」
笑って去っていった。
その直後、別の使節がすれ違いざまに小声で言った。南方連合の若い外交官だ。
「蛮族の嫁ですか。ご苦労なことで」
聞こえないふりをした。
聞こえないふりをしたのに、背後で空気が変わった。振り返ると、ガルドが南方連合の外交官の方を見ていた。あの、何も語らない金の瞳で。
外交官の足が止まっている。
ガルドは何も言わなかった。
何も言わないまま、歩き出した。
宿に戻ってから、イレーネがぽつりと教えてくれた。
「ガルド族長、南方連合との来年の交渉条件を二割引き上げたわよ。さっき副官に指示してた」
「なぜ?」
「さあ。何か気に入らないことがあったんじゃない」
イレーネの顔は無表情だった。ただ、目の奥がかすかに笑っていた。
何が面白いのか分からない。南方連合の交易品は希少性が低いから、条件を上げてもこちらの損は少ない。この人にも、こちらが知らない判断基準があるのだろう。
そう結論づけた。
帰路。
馬で草原を走る。秋の空気は冷たくて澄んでいて、肺が洗われるようだ。
隣をガルドの馬が並走している。
会議の二日間、この人は本当に座っているだけだった。一言も発言しなかった。でも、彼がそこにいるだけで、相手の出方が変わった。
「ガルド」
呼んでから、血の気が引いた。
族長、と呼ぶべきだった。なぜ今、名前が出た。意識して呼んだのではない。勝手に口が動いた。
気持ちが悪い。自分の口が信用できない。
でもガルドは気にした様子もなく、こちらを見た。
「よくやった」
短い。
いつも通り短い。
「ありがとうございます。サーシャの帳簿とイレーネの情報がなければ無理でした。あと、安全保障の件は準備不足でした」
「お前が使った」
使った。
その言い方は、能力を活かしたという意味だろう。この人の言葉は短すぎて、裏を読むのが難しい。
馬が草を蹴る音だけが、しばらく続いた。
「……族長」
言い直した。さっきの失言を上書きするように。
「次は、もう少しうまくやれると思います」
「ああ」
それだけだった。
ガルドは前を向いたまま、馬を走らせている。
帰路の副官が、馬を寄せてきて小声で言った。
「族長があんなに言葉を使うのは珍しい」
「え? 二言ですよ」
「普通は一言です」
意味が分からなかったので、そのまま馬を走らせた。
天幕群が見えてきた。
煙が立ち上っている。夕餉の準備だ。今日はナディアが当番のはずだから、干し肉の煮込みだろう。ナディアの煮込みは味つけが荒いが、量だけは多い。
早く帰りたい。
その感覚に少し驚いた。
帰りたいと思う場所があるのは、前の人生でも今の人生でも、初めてかもしれない。
天幕に入ると、イレーネが待っていた。
笑っていなかった。
「悪い知らせよ」
「何」
「聖女が動いた。あなたの暗殺を画策しているみたい。うちの情報網に引っかかった」
暗殺。
毛皮のコートの襟に指が触れた。
無意識だった。
「……詳しく聞かせて」
秋の夜風が、天幕の布を揺らしている。
温かかった天幕が、少しだけ冷えた気がした。




