第4話 席順
「あんたが第一夫人? 笑わせないで。私が先に嫁いだのよ」
イレーネの声は穏やかだった。穏やかなまま、正確に急所を突いてくる。
この人の怖さは、そこだ。
後宮の天幕。妻が五人、車座に座っている。卓の上には茶と、サーシャの帳簿と、片付けそこねた朝食の皿。干し肉の切れ端が皿の隅に残っている。
到着から三ヶ月。盛夏。天幕の中は蒸す。
「先代の密約で第一夫人になっただけの外部者が、全体を仕切る。それを私たちが黙って受け入れると思って?」
イレーネの言い分は正しい。
彼女はヴァルグ族の有力氏族の長の娘として嫁いできた。一年前からこの後宮にいる。部族の政治を理解し、情報網を持ち、社交の作法を知っている。
私は三ヶ月前にぽんと放り込まれた余所者だ。
「べつにあんたが無能だとは言ってないわ。交易の件は認める。でも、それと序列は別の話でしょう」
ナディアが短剣の手入れをしながら口を挟んだ。
「序列なんていらない。強い順でいい」
「それはあなたの論理でしょう。氏族の格で決めるべきよ」
「氏族の格? あたしの氏族は——」
「暗殺者の家系でしょう。知ってるわ」
ナディアの手が止まった。
短剣の刃に、焚き火の光が映っている。
空気が、まずい方向に傾いている。
「ユーリヤは?」
私が振ると、ユーリヤは足元にまとわりつく子どもの髪を撫でながら言った。
「私は実績で判断する派。でも正直、今のままだと揉めるだけよ。毎回これやるの、面倒くさいし」
面倒くさい。
それが一番正直な意見だろう。
私は、息を吸った。
「提案があります」
四人の目がこちらに向く。
「序列をやめましょう」
沈黙。
「序列の代わりに、役割分担にしませんか。誰が上で誰が下かではなく、誰が何を担当するか」
干し肉の皿を脇にどけて、卓の上に指で線を引いた。茶がこぼれた跡をなぞる。
「ナディアは防諜と警護。あなたの動きを見ていれば、これが適任だと分かります」
ナディアが少しだけ眉を上げた。
「ユーリヤは育児と教育と日常管理。子どもたちの世話も、天幕群全体の生活の回し方も、あなたが一番分かってる」
「まあ、そりゃそうだけど」
「サーシャは財務と会計。これは今まで通り」
サーシャが帳簿を胸に抱えるように頷いた。
「イレーネは情報収集と外交補佐。あなたの情報網と社交力は、私には真似できない」
イレーネの目が細くなった。
「で、あなたは?」
「全体の調整。第一夫人の仕事は命令することじゃない。皆さんが力を発揮できる環境を作ることです」
黙って聞いていたイレーネが、茶の器を持ち上げた。一口飲んで、戻す。
「きれいごとね」
「そうかもしれません」
「自分が一番楽な役を取ってるようにも見えるけど?」
「調整役が楽に見えるなら、やってみますか」
イレーネが目を瞬いた。
少しだけ、ほんの少しだけ、口の端が動いた。笑ったのかもしれない。
「——考えておく」
ナディアが短剣を鞘に収めた。
「あたしはいい。好きにやらせてくれるなら文句はない」
ユーリヤが立ち上がった。
「じゃ、とりあえずそれで回してみましょ。うまくいかなかったらまた揉めればいいし」
雑な決着だった。
でも、きれいに決まるより、こっちの方がいい。前の人生で覚えたことの一つ。全員が納得する合意なんてない。全員が「まあ、いいか」と思える着地点があれば、それで十分だ。
午後、ナディアと天幕群の外縁を歩いた。巡回に同行させてもらったのだ。
「あんた、朝の話。あたしの出自を知ってて言ったの」
「動きを見れば分かります。あなたの足運びは護衛のそれじゃない。もっと……専門的な訓練を受けた人の動きです」
「はっきり言いなさいよ。殺し屋の動きだって」
「元、でしょう。今は違う」
ナディアが横目でこちらを見た。
「……足を洗いたかったの。ここに嫁げば、もう誰も殺さなくていいと思った」
風が草を揺らしている。遠くで馬がいなないた。
「守る方が性に合ってたみたい。あんたのことも、守ったげる。調整役がいなくなったら面倒だから」
最後の一言は照れ隠しだろう。
サーシャの天幕に帳簿を返しに行った時、彼女が小さな声で言った。
「セラフィナさん。あの——私、借金のために嫁いだんです。実家が五十リアの借金を抱えてて。族長に嫁げば、氏族間の取り決めで帳消しにしてもらえるって」
「うん」
「だから、愛されるとか、必要とされるとか、最初から期待してなくて。数字だけやってればいいと思ってました。でも——」
言葉が途切れた。帳簿の角を指で撫でている。
「あの役割分担の話。私の仕事を、ちゃんと仕事として認めてくれたの、初めてです」
私は何と言えばいいか分からなかった。
だから、何も言わなかった。
この子に必要なのは慰めの言葉ではない。数字を任せ続けることだ。
夕方。天幕に帰る途中で足がもつれた。
もつれた、というのは正確ではない。膝が抜けた。体力が切れたのだ。三ヶ月経っても、遊牧民の生活リズムについていけない。午前中に天幕群を歩き回り、午後に巡回に同行し、帳簿を確認して、長老たちへの根回しを考えて。頭は動くのに、体が追いつかない。
膝をついた。草が頬に触れた。空が広い。広すぎる。
蹄の音がした。
見上げると、馬の上からガルドが見下ろしていた。金の瞳。無表情。
何か言われると思った。「体を鍛えろ」とか、「無理をするな」とか。
どちらも言わなかった。
馬から降りて、私の腕を取り、馬に乗せた。
動作は事務的だった。戦場で負傷兵を馬に乗せるのと同じ手つきだろう。
手のひらが硬かった。剣胼胝だ。
馬がゆっくり歩き出す。ガルドが手綱を引いている。徒歩で。
族長が、追放された令嬢のために馬を引いて歩いている。
「……すみません。自分で歩けます」
「歩けないから膝をついた」
返す言葉がない。
天幕まで、百歩もなかった。でもその百歩の間、ガルドは一言も喋らなかった。
私も喋らなかった。馬の背は温かくて、少しだけ揺れて、夕焼けの草原が左右にゆっくり流れていった。
天幕の前で降ろされた。
「明日から、巡回には馬を使え」
それだけ言って、ガルドは去った。振り返らなかった。
私は天幕に入った。
何か考えなければいけない気がしたが、何を考えればいいのか分からなかった。馬の背の温度が、腿の裏にまだ残っている。
翌朝。
目が覚めて、天幕の入り口に目をやった。
毛皮のコートが、畳んで置かれていた。
見たことのない毛皮だ。銀狐だろうか。手触りが柔らかい。王宮で見た最高級品と同じか、それ以上の質。
名前は書いていない。手紙も添えられていない。
誰だろう。
昨日、足をもつれさせたのを見て、誰かが気を遣ってくれたのかもしれない。サーシャか。ユーリヤか。ナディアは、ナディアがこういう気の利かせ方をするとは思えない。イレーネは「考えておく」と言ったきりだから、まだ距離がある。
サーシャだろう。あの子は、こういう黙った優しさを持っている。
袖を通してみた。
温かい。腕の長さもぴったりだ。
いや、遊牧民の毛皮のコートはもともとゆったりした作りだろう。たまたま合っただけだ。
コートを着たまま外に出た。朝の空気が冷たくなり始めている。盛夏でも、北方の朝は油断できない。
焚き火の傍に座ると、ユーリヤが私を見て、少しだけ目を細めた。
「いいコートね。どうしたの」
「……朝起きたら置いてあったの。誰かが」
「へえ」
ユーリヤはそれ以上何も言わなかった。
ただ、何か面白いものでも見たみたいに、口の端だけ持ち上げた。
意味が分からない。
「ところでセラフィナ。あんたのことをちょっと聞いていい?」
イレーネが茶を注ぎながら、声のトーンを一段落とした。
「王国から来た密偵が、二人ほど草原に入ったみたい。うちの情報網に引っかかった」
密偵。
王国が、もう動き始めている。
「交易の件を嗅ぎつけたのか、それとも——」
「分からない。でも、偶然じゃないでしょうね」
イレーネの目が笑っていない。
情報と外交を任せて正解だった。この人の嗅覚は本物だ。
「ナディアに伝えて。密偵の動きを監視。接触はしない。泳がせた方が情報が取れる」
自分の口から出た言葉に、少しだけ驚いた。
前の人生の癖が出ている。現地の情報員に指示を出す時の、あの口調。
イレーネが、茶の器越しにこちらを見た。
「……あなた、本当に何者なの」
「王国から追い出されてきた、体力のない令嬢ですよ」
「嘘ばっかり」
でも、それ以上は聞かなかった。
この人も、踏み込みすぎない距離の取り方を知っている。
干し肉を噛んだ。硬い。相変わらず硬い。でも、噛むほど味が出るのは認める。塩気の奥に、少しだけ甘みがある。
この甘みに気づいたのは先週のことだ。三ヶ月かかった。




