第3話 帳簿
ヴァルグ族の帳簿を見て、私は頭を抱えた。
これは帳簿ではない。災害記録だ。
「……サーシャ。これ、合ってる?」
「合ってます。合ってるから困ってるんです」
サーシャの天幕の隅に並んで座り、羊皮紙の束を広げている。インクの染みた指で数字を追う彼女の横顔は、二十歳とは思えないほど疲れている。
到着から一ヶ月。初夏の風が天幕を揺らしている。
帳簿の内容は単純だった。
ヴァルグ族の主な収入源は毛皮の交易。北方でしか採れない銀狐と黒貂の毛皮は、大陸でも最高級品として取引される。
問題は、その取引の全てが王国を経由していることだ。
「仲介手数料、四割」
「はい」
「輸送費の名目で、さらに二割」
「はい」
「……六割が消えてるじゃない」
サーシャが小さく頷いた。
「前の、先代の族長の頃からこうです。王国が唯一の取引先で、他に売る手段がなくて」
私は帳簿の数字をもう一度見た。
年間の毛皮取引量から逆算すると、本来の市場価格ではヴァルグ族は月に百五十リア近い利益を得られるはずだ。それが、王国の中間搾取で三十リアまで削られている。
三十リアで数千人の部族を養う。
養えるわけがない。
「東のエストリア王国との直接取引は?」
「考えたことはあります。でも、ルートがない。エストリアとの間には山脈があって、通れる峠は二つしかなくて、どっちも王国の砦が押さえてます」
王国の砦。
私は、その砦の管理台帳を見たことがある。
婚約者時代、北方交易の実務を任されていた。あの頃は退屈な事務仕事だと思っていた。まさか、それが今になって武器になるとは。
「砦を通らないルートがある」
サーシャの指が止まった。
「北の峠は二つ。でも、南に迂回して川沿いに東へ抜ける道がある。王国の地図には載っていない。測量士が省略した、商人には使えないと判断された細い道。でも、馬なら通れる」
「……なんで、そんなことを知ってるんですか」
「前の婚約者の仕事で、北方交易路の全図面を管理してたの。地図の隅に、測量士が走り書きで残してた注記があった。『馬匹通行可、荷馬車不可、降雪期閉鎖』って」
サーシャの目が丸くなった。
帳簿を握る指に力が入っている。
「エストリアに直接売れば、仲介手数料はゼロ。輸送費は馬で自前運搬するから最小限。市場価格の八割は手元に残る計算です」
「月に……」
「最初のうちは六十から七十リアくらい。信頼関係ができて取引量が増えれば、九十を超えるはず」
サーシャが息を呑んだ。
控えめに見ても、今の倍以上だ。
問題は、私の計算が正しいかどうかではなかった。
問題は、部族がそれを受け入れるかどうかだ。
翌日。族長の天幕で開かれた長老会議。
天幕の中は煙い。焚き火の煙と、男たちの体臭と、獣脂の匂いが混ざっている。王宮のサロンとは比べものにならない。
鼻の奥がひりつく。でも顔には出さない。
長老が五人。ガルドが正面。私は隅に座っている。妻の同席は許可されているが、発言は、慣例上は、求められていない。
サーシャが私の代わりに数字を説明した。私の部族語はまだ完璧ではない。数字と交易用語はいけるが、長老相手の丁寧な言い回しは心許ない。サーシャに託した方がいい。
彼女は緊張で声が震えていたが、数字だけは正確だった。
最初に反応したのは、長老の中で最も年長のカザルだった。白い顎髭を撫でながら、低い声で言った。
「王国の女の言うことを聞くのか」
部族語だ。でも、聞き取れた。
「間者かもしれん」
天幕の空気が張り詰めた。サーシャの声が止まる。
カザルの目が、私を見た。
値踏みではない。排除だ。この老人は、私を脅威だと見ている。新参の外部者が、部族の金の流れに口を出すことが気に入らない。
当然だ。自分の立場を考えれば、私だって同じことを言う。
反論しようと口を開きかけた。
その前に、ガルドが動いた。
動いた、というのは正確ではない。ただ視線を向けただけだ。カザルの方へ。
金の瞳が、老人を見据える。
何も言わない。声を上げない。威圧するような動きもない。
ただ、見た。
カザルが黙った。
天幕の中の全員が黙った。
交渉の場で、発言せずに場を制御する人間を何人か知っている。前の人生で。彼らに共通するのは、沈黙に意味を持たせる力だ。
ガルドのそれは、意味というより圧力に近い。大陸最強と呼ばれる騎馬軍団の長が黙って見ている。それだけで、反論の言葉が喉の奥に引っ込む。
私は立ち上がった。
「カザル殿」
部族語で言った。発音はまだ硬い。でも、伝わればいい。
「間者かどうかは、数字で判断してください。今の交易を続けて、来年の冬を越せますか」
サーシャの方を見た。彼女が帳簿を掲げる。手が震えているが、数字は震えない。
「月三十リアで、馬の飼料と塩と鉄を賄えるか。冬の備蓄は足りるか。足りないなら、私の提案を試す価値はあるはずです」
カザルは答えなかった。答えられなかったのだと思う。数字は嘘をつかない。
長老の一人が、小さく唸った。別の一人が、隣の長老と目を見交わした。
ガルドが口を開いた。
「試す」
一言だった。
賛成でも反対でもない。「試す」。この男らしい。
一ヶ月後。
最初のエストリアとの直接取引が成立した。
銀狐の毛皮百枚。王国経由なら二十リアにしかならない量が、エストリアの商人に直接売って七十二リアになった。そこから馬の輸送費と人件費を引いて、手元に残ったのは六十一リア。
初回としては上出来だ。相手もこちらの品質を見極めている段階だから、値は控えめに出してくる。次回以降、信頼が積めば単価は上がる。
サーシャが帳簿を閉じて、しばらく動かなかった。
「……信じられない」
「信じて。あなたが計算したんだから」
「でも、こんなに」
「来月はもっと増える。ルートが安定すれば、黒貂も出せる。黒貂はエストリアで銀狐の三倍の値がつく」
サーシャの目が潤んでいた。泣いているのではない。二十歳の娘が、実家の借金のために嫁いできて、数字だけが味方で、その数字がやっと味方になってくれた。そういう顔だった。
私は何も言わなかった。
代わりに、切れかけていたインクの予備を渡した。先週、交易の荷に紛れてエストリアから取り寄せたものだ。
「これ——」
「帳簿のインクが薄くなってたでしょう。数字が読めなくなったら困る」
サーシャが、インク瓶を両手で受け取った。
大事なものを持つみたいに。
たかがインクなのに。
でもまあ、たかがインクが、たかがではない人もいるのだ。
夕方、焚き火の傍でイレーネが教えてくれた。
「あなたの交易改革の話、もう周辺の部族に広まってるわよ」
「早いですね」
「草原の噂は馬より速い。『蛮族の第一夫人が王国出身の交渉者らしい』って。ルグ族とバイカル族の族長が、うちとの同盟交易に興味を示してるって話も来てる」
イレーネの目が笑っている。ただし、いつも通り、その目の奥は計算している。
「嬉しいのか怖いのか、どっちですかそれ」
「両方。あなたが使えるのは嬉しい。でも、使える人間には使い方を間違える人間も寄ってくる。気をつけなさい」
忠告なのか牽制なのか。
両方だろう。この人はいつも両方だ。
焚き火の向こうで、ガルドが戦士たちと何か話している。声は聞こえない。ただ、一瞬だけこちらを見た気がした。
気のせいかもしれない。焚き火の影は、視線の方向を曖昧にする。
空を見上げた。
星が、馬鹿みたいに多い。
王都では見えなかった星が、ここでは手が届きそうなほど近い。
綺麗だと思う前に、首が痛くなった。今日は長老会議で緊張しすぎたせいで、首と肩が鉄板みたいに硬い。
明日は、エストリアとの第二回目の交渉がある。黒貂の価格交渉だ。
サーシャの帳簿を借りて、もう一度数字を確認しておこう。あの子のインクが新しくなっていれば、数字も読みやすくなっているはずだ。




