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断罪された令嬢は蛮族の第一夫人になりました  作者: 九葉(くずは)


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第2話 役立たず

 目が覚めると、天幕の天井が揺れていた。


 風だ。布一枚の向こうが外で、外は草原で、草原はどこまでも続いている。王宮の天蓋付きベッドとは、何もかもが違う。

 寝返りを打とうとして、全身が軋んだ。腰だけではない。背中も、太ももも、ふくらはぎも。七日間の馬車旅と、昨夜の硬い寝床のせいだろう。毛皮は温かかったが、柔らかくはなかった。


 体を起こす。


 天幕の中は、昨夜より明るい。布の継ぎ目から朝日が漏れている。低い卓の上に、冷めた茶の器が残っていた。昨夜、最後に出された二杯目。あの独特の苦味を思い出す。


 さて。


 初日だ。

 何をすべきか。何ができるか。

 前の人生なら、まず現地スタッフと顔合わせをして、通訳を確保して、生活環境を把握するところから始める。

 今の私に通訳はいない。部族語は一言も分からない。生活環境の把握以前に、この天幕からどちらに行けば水場があるのかすら知らない。


 外に出た。


 朝の草原は、思っていたより騒がしかった。馬のいななき、子どもの叫び声、鍛冶の音、煮炊きの匂い。天幕の間を人が行き来している。すれ違う戦士たちが、ちらりとこちらを見ては通り過ぎる。

 好奇心と警戒が半々、という顔だ。


「おはよう。生きてた?」


 声の方を向くと、日焼けの女、第三夫人のユーリヤが立っていた。腰に手を当てて、こちらを見下ろしている。足元に昨夜の子どもがまとわりついている。子どもはもう一人増えていた。


「おはようございます。かろうじて」

「朝食はあっち。自分で取って。待ってても誰も持ってこないから」

「……はい」


 王宮では侍女が運んでくれた。

 当たり前だ。ここは王宮ではない。


 朝食は、天幕群の中央にある大きな焚き火の周りで取るらしい。鍋に何かの粥が煮えている。干した肉と、硬いパン。器を渡されたが、どの器が誰のものかも分からない。

 適当に粥をよそって座った。味は塩が強い。肉は硬い。パンは、顎が疲れる。

 王宮の朝食は焼きたてのパンと季節の果物とハーブティーだった。比べるな、と自分に言い聞かせた。比べたところで、ハーブティーは出てこない。




 午前中、ユーリヤに連れられて後宮の仕事を見学した。


 仕事、というのは正確ではない。生活だ。遊牧民の後宮は、王国のそれとはまるで違った。

 天幕の設営と補修。馬の世話。水汲み。毛皮の処理。食事の準備。子どもの世話。来客の対応。帳簿の管理。情報の整理。

 妻たちは、それぞれの役割をこなしている。


 第二夫人のナディアは短剣の手入れをしながら、天幕群の周囲を巡回していた。護衛と偵察を兼ねているらしい。動きに無駄がない。この人、ただの護衛じゃない、と思ったが、根拠はまだない。勘だ。

 第四夫人のサーシャは天幕の隅で帳簿と格闘していた。インクが指に染みている。ときどき小さくため息をつく。

 第五夫人のイレーネは、来客の使者らしき男と流暢に話していた。社交的な笑顔の裏で、目が相手の反応を計算している。あの目は知っている。交渉のプロの目だ。


 そして、私は。


「水汲み、やってみる?」


 ユーリヤに言われて、桶を持った。

 水場は天幕群から二百歩ほど離れた小川だった。行きはいい。問題は帰りだ。

 水を満たした桶が、重い。

 信じられないほど、重い。

 五十歩で腕が震え、百歩で足がもつれ、百五十歩で桶を地面に置いた。水が半分こぼれた。


 ユーリヤが無言でこちらを見ている。子どもたちも見ている。通りすがりの戦士も見ている。


「……すみません」


「まあ、うん。知ってた」


 ユーリヤの声に悪意はなかった。ただ、事実を確認しただけという顔だった。


「で、あんたは何ができるの?」


 昨夜と同じ問いだ。ただし、昨夜より切実に聞こえた。


「ここでは役に立たない者は居場所がないの。族長の妻だろうと関係ない。あんた、何ができる?」


 水汲みはできない。馬の世話もできない。天幕の設営もできない。

 私にできるのは、帳簿を読むことと、人と話すことと。


「言葉を覚えます」


「は?」


「まず、ここの言葉を覚えます。話せなければ何も始まりませんから」


 ユーリヤが、少しだけ眉を上げた。




 部族語の習得は、思ったより早く進んだ。


 理由は二つある。一つは前世の経験。国際機関にいた頃、赴任先の言語を短期間で叩き込む訓練を受けていた。文法から入るのではなく、まず音を真似る。生活の中で耳を浸す。意味は後からついてくる。

 もう一つは、この体に何かがある。言葉の音が、異様に頭に残る。一度聞いた単語が、翌朝にはまだ耳の奥に残っている。前世ではこんなことはなかった。転生の時に何か余計なものがくっついてきたのかもしれない。


 朝は焚き火の周りで部族の女性たちの会話を聞いた。何を言っているか分からなくても、音を覚えた。

 昼はサーシャの隣に座って帳簿を見せてもらった。数字は万国共通だ。品名を指して、サーシャに部族語で読んでもらう。毛皮。馬。塩。鉄。

 夜はユーリヤの子どもたちと一緒にいた。子どもの言葉は単純で、発音が明瞭で、間違えても笑われるだけで済む。


 それでも最初の一週間は地獄だった。

 体は相変わらず使い物にならない。毎晩、筋肉痛で寝返りが打てない。水汲みは三日目に免除されたが、それは「戦力外」と認定されたということだ。

 食事の味にも慣れない。塩が強い。肉が硬い。パンが乾いている。

 でも、食べた。前の人生で覚えたことの一つ。現地の食事を残す人間は、現地の人間に信用されない。


 二週間が経つ頃には、日常会話の大半が分かるようになっていた。


 転機が来たのは、その日だ。




 王国から使者が来た。


 族長の天幕に通された使者は、若い文官だった。帝国共通語で、つまり王国の言葉で、一方的に要求を読み上げ始めた。通訳は連れていない。


「本国は、先般の貢ぎ物の引き渡しに関し、以下の追加条件を——」


 私は族長の天幕の端に座っていた。妻たちも同席している。正確には、同席を許されている。発言権があるかどうかは、まだよく分からない。


 使者は早口で条件を並べている。交易路の使用料の引き上げ。毛皮の納入量の増加。族長の天幕に通された他国の使者との面会記録の提出。

 無茶苦茶だ。


 ガルドは黙って聞いている。表情は読めない。いつも通りだ。

 ただ、隣に座るナディアの指が、短剣の柄に触れていた。


 使者はまだ喋っている。帝国共通語で。部族語への翻訳は、誰もしていない。


 この男、通訳を連れてこなかったのではない。必要ないと思ったのだ。蛮族に言葉など通じなくてもいい。読み上げれば義務は果たした。そういう態度だ。


 前の人生で、似た人間を何人も見た。現地語を覚えずに赴任して、英語が通じないことに苛立つ外交官。通訳を介さず契約書を押し付けるビジネスマン。


 私は口を開いた。


 部族語で。


「この方は通訳をお忘れのようです。どなたか手伝って差し上げたらいかがでしょう」


 ナディアの指が、短剣から離れた。

 サーシャが帳簿で口元を隠した。

 ユーリヤが笑った。声を出して、遠慮なく。


 使者の顔が赤くなった。部族語は分からなくても、笑われていることは分かる。


 私はにこやかに帝国共通語に切り替えた。


「失礼。通訳が必要でしたら、私が務めましょうか。蛮族の第一夫人、セラフィナです」


 使者は何も言えなかった。

 しばらくして、書類を置いて帰った。条件の読み上げすら、最後まで終わらなかった。


 天幕の中に、妙な沈黙が残った。


 ガルドがこちらを見た。金の瞳が、初めて何か、感心とも観察とも呼べる光を帯びていた。

 でも何も言わなかった。この人はいつも何も言わない。


 イレーネが茶を注ぎ直しながら、ぽつりと言った。


「……使えるじゃない」


 褒めているのか値踏みしているのか、判別がつかない。

 両方だろう。この人はいつも両方だ。




 その夜。


 天幕に戻って気づいた。毛布が増えている。昨日まで一枚だったのが、二枚になっている。

 それだけではない。天幕自体が、布が二重に張られている。昨日まで一枚だった壁が、二枚になっている。風が入りにくい。温かい。


 いつの間に。


 朝は一枚だった。いや、一枚だったかどうか、正直に言えば自信がない。毎朝筋肉痛で目が覚めていたから、天幕の壁の枚数を数える余裕はなかった。


 もともとこういう仕様なのかもしれない。北方は寒い。第一夫人の天幕は防寒が手厚いのかもしれない。


 そういうことにした。


 毛皮の上に横になる。今夜は、昨夜より温かい。

 体のあちこちが痛い。でも、二週間前よりはましだ。少しだけ。


 目を閉じる前に、ユーリヤの声を思い出した。


 夕食の後、焚き火の傍で、ユーリヤが私の顔をじっと見ていた。


「あんた、本当に王国の令嬢?」


「一応、そういうことになっていましたけど」


「動きが違う。言葉を覚える速さもだけど、それだけじゃない。あの使者が来た時、あんた、天幕の空気を読んでた。ナディアが短剣に触る前に、あんたはもう口を開く準備をしてた」


 鋭い。

 この人は、見ている。


「……勘です」


「勘ね」


 ユーリヤは笑わなかった。信じてもいなかった。

 ただ、それ以上は聞かなかった。


 天幕の布が風に揺れている。

 温かい。二重の壁のおかげだ。


 誰がやってくれたのだろう。

 聞けばいいのに、聞く相手が思いつかない。妻たちの誰かだろうか。サーシャあたりが気を利かせたのかもしれない。


 まあ、いい。

 明日は帳簿の続きを見せてもらう約束がある。サーシャのインクが切れかけていたから、代わりを探さないと。


 私は目を閉じた。


 草原の夜は、静かだ。

 虫の声と、遠くの馬のいびきと、風の音だけが聞こえる。


 王宮の夜は、いつも誰かの足音がしていた。侍女の。護衛の。そして、聞こえないはずの、聖女の。


 ここには、足音がない。

 それが安心なのか不安なのか、まだ分からない。

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