第1話 貢ぎ物
「この毒婦を、蛮族への貢ぎ物にせよ」
声が広間に落ちた。
玉座の前に立つ王太子アルヴィンの顔は、正義に酔った人間特有の、あの清々しい表情をしていた。
広間は静まり返っている。いや、違う。静まっているのではない。誰もが息を止めているだけだ。
聖女ルクレツィアが私の横に立ち、白い手を胸に当てて伏し目がちにしている。清楚で慈悲深い聖女様。その睫毛の先が、わずかに震えている演技を、私はぼんやりと眺めていた。
「神託により明らかになりました。この者——セラフィナ・ヴァレンシアが国に災いをもたらすと」
神託。
便利な言葉だ。
私の後ろで、父の声がした。
「待ちなさい。証拠はどこにある。証人は聖女と——」
「ヴァレンシア公爵」
聖女派のバルトロス侯爵が遮った。穏やかな声だった。穏やかな声の方が、恫喝より厄介だということを、私は知っている。
「陛下がご病気の折、国を憂う聖女様の神託を疑うのですか。それとも、娘の罪を隠すために王太子殿下の御判断に異を唱えると?」
父が黙った。
私はその沈黙の形を、背中で聞いた。あの人は昔から、言葉で戦うのが苦手だった。剣なら誰にも負けないのに。
義妹のマルグリットが、貴族たちの列の端で涙を拭っている。
きれいに泣く子だ、と思った。昔からそうだった。この子が泣くと、周りの大人は全員こちらを見る。お姉さまが何かしたんでしょう、と。
でも今は、それすらどうでもいい気がしている。
「セラフィナ・ヴァレンシア。婚約を破棄し、北方の蛮族への貢ぎ物とする」
アルヴィンが宣言した。
私は彼の顔を見上げた。二年前、この人と庭園を歩いた時、薔薇の棘で指を切って大騒ぎしていた。あの程度の痛みで顔色を変えていた人が、今、私の人生を切り落としている。
棘の方がまだ誠実だった。棘は、自分が棘だと隠さないから。
頭が痛い。
……痛い?
広間の空気が遠くなる。
視界が白く滲んで、何かが頭の中に流れ込んでくる。会議室。蛍光灯。書類の山。空港のロビー。珈琲の匂い。通訳用のイヤホン。誰かの怒声。条約の草案。ホテルの窓から見えた、知らない街の夜景。
私は。
前の人生で。
交渉官だった。
頭蓋骨の内側を万力で締められるような痛みが走る。膝が笑いそうになる。でも、ここで倒れるわけにはいかない。
こういう場面では感情を見せたら負けだ。
誰の声だろう。私の声だ。前の私の。
私は背筋を伸ばした。
「ご丁寧にどうも」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。
「では旅支度がありますので、失礼いたします」
広間がざわついた。泣くと思ったのだろう。命乞いをすると思ったのだろう。あるいは、激昂して聖女に掴みかかるとでも。
残念ながら、私は、少なくとも今の私は、そのどれも選ばない。
交渉の席で感情を見せるのは、カードを相手に晒すのと同じだ。
これは前の私が知っていたことで、今の私がたった今、骨の髄まで思い出したことだった。
踵を返す。
広間を出る直前、聖女と目が合った。
あの人は笑っていなかった。笑っていないのが、かえって怖かった。
護送の馬車は、思ったより揺れた。
革張りの座席はところどころ擦り切れていて、窓の留め金が緩い。風が隙間から入るたびに、埃っぽい草の匂いがした。王国の北端に近づくにつれて、空気が変わっていく。乾いて、冷たくて、どこか獣の気配がする。
護衛兵は二人。どちらも私と目を合わせない。
それはそうだろう。国家反逆の罪人を護送しているのだから。
私は揺れる馬車の中で、頭の中を整理していた。
前世の記憶。国際機関で紛争調停をしていた女。名前は思い出せない。いや、思い出す必要はないのかもしれない。重要なのは名前ではなく、あの人が持っていた技術だ。
異文化理解。多言語対応。利害調整。
そして、交渉。
蛮族と呼ばれる人たちのところへ行くのだという。
北方の遊牧民族。王国では「野蛮で粗暴」とされている。
でも、前の人生で学んだことがある。ある文化を「野蛮」と呼ぶ人間は、たいていその文化を理解する気がないだけだ。
問題は、私に何ができるかだ。
剣は使えない。今世で習ったのは刺繍と社交辞令くらいだ。
魔法の適性はない。鑑定も治癒も浄化も、何一つ。
体力に至っては、馬車に七日揺られただけで腰が悲鳴を上げている。
武器は、頭だけ。
前世の交渉スキルと、今世で叩き込まれた北方交易の知識。
足りるだろうか。
窓の外を見る。草原が広がっている。地平線まで、何もない。
何もないというのは、何でも作れるということだ。
そう思わないと、この馬車の中で正気を保てそうにない。
七日後。
馬車が止まった。
外に出ると、風が頬を叩いた。王都の風とはまるで違う。湿り気がなく、冷たく、どこまでも抜けていく。
目の前に、巨大な天幕群が広がっていた。
白と灰色の天幕が数十、いや、百以上はあるだろう。煙が何本も立ち上り、馬のいななきと子どもの声が混ざっている。
そして、天幕群の前に、男が立っていた。
大きい。
それが最初の印象だった。百九十はあるだろう。銀灰色の髪。金の瞳。精悍な顔立ちだが、表情というものがほとんどない。
交渉相手の中で最も厄介なタイプだ。何を考えているか読めない顔。こういう相手は、条件を出すまで腹の底が分からない。
「ヴァルグ族族長、ガルドだ」
声は低い。言葉は短い。
「お前が王国からの——」
「貢ぎ物、でしたかしら」
私が先に言った。自嘲ではない。事実確認だ。
この場で卑屈になっても意味がない。前の人生で覚えたことの一つ。相手の文化が実力主義なら、最初の印象が全てを決める。
族長の金の瞳が、一瞬だけ動いた。
「貢ぎ物ではない」
短い否定。
「先代との約定に基づき、第一夫人として迎える。それが対等な外交だ」
第一夫人。
意味を飲み込むのに、数秒かかった。
「……先代との約定?」
「親父が、ヴァレンシア公爵家と交わした取り決めだ。詳しくは後で話す」
父が。
知っていたのだろうか。知っていて、それでも私を守れなかったのか。
いや、今はそれを考えるな。
族長が背後の戦士に何か命じた。部族語だ。聞いたことのない響き。硬い子音と、意外なほど柔らかい母音。
戦士が二人、馬車に向かう。私の荷物を下ろすのだろう。大した量はない。追放される人間に、衣装箱を持たせる余裕は王国にもなかったらしい。
「丁寧に扱え」
族長が、短く言い足した。
「この方の持ち物だ」
戦士たちの動きが変わった。雑に掴もうとしていた手が、少し改まる。
「この方」。
貢ぎ物に対して使う言葉ではない。
この人は無表情だが、馬鹿ではないらしい。追放された罪人をぞんざいに扱えば、将来の外交カードとしての価値が下がる。そういう計算ができる人間だ。
そう解釈して、私は納得した。
天幕群の奥へ案内される。
大きな天幕の前で、族長が足を止めた。
「ここがお前の天幕だ。後宮の——まあ、王国の言い方で言えばそうなる」
後宮。
多妻制だと聞いていた。何人妻がいるのだろう。
天幕の布を持ち上げる。中は思ったより広い。毛皮が敷かれ、低い卓があり、燭台に火が灯っている。
そして、四人の女が、こちらを見ていた。
一人は鋭い目をした長身の女。腰に短剣を帯びている。
一人は腕を組んだ、日に焼けた肌の女。足元に子どもが一人まとわりついている。
一人は私より若い、小柄な娘。帳簿のようなものを抱えている。
一人は優雅な所作で茶を注いでいる女。その目だけが、笑っていない。
四人の視線が、私を値踏みしている。
足がすくむ。
嘘だ。足はすくんでいない。すくんでいるのは胃の方だ。七日間、ろくに食べていないのに、胃の底が重い。
私は深呼吸をした。
前の人生では、武装した民兵グループとの調停会議に一人で入ったこともある。あの時も胃が重かった。でも、座って、話して、帰ってきた。
大丈夫。
武器を持った人間とは交渉できる。武器を持っていない人間より、ずっと話が早い。
あの短剣の女、抜くのかしら。
抜かなかった。代わりに、腕を組んだ日焼けの女が口を開いた。
「で。あんたが新入り?」
値踏みの視線は変わらない。
でも、敵意とは少し違う気がする。これは品定めだ。
私は、この場で最も正しい選択をした。
すなわち、正直に言った。
「セラフィナです。王国から追い出されてきました。剣も魔法も使えません。体力もありません。七日間馬車に揺られて腰が死んでます。よろしくお願いいたします」
沈黙。
帳簿を持った娘が、小さく吹き出した。
すぐに口を押さえたが、遅い。
日焼けの女が、少しだけ目を細めた。笑ったのか、呆れたのか、判別がつかない。
「……座りなさい」
そう言ったのは、茶を注いでいた女だった。
「立ち話も何ですから。——お茶、飲めます?」
私は座った。
毛皮の上は、想像より温かかった。
差し出された茶は、見たことのない色をしていた。赤みがかった琥珀色。匂いは干した花と、少しだけ獣脂。
王国では絶対に出てこない茶だ。
一口飲んだ。
苦い。前世で飲んだどの茶より苦い。でも、不思議と温まる。嫌いではない。嫌いではないことに、少しだけ安心した。
四人の目が、私を見ている。
ここが、私の新しい戦場か。
窓はない。天幕だから当然だ。
代わりに、布の隙間から草原の風が入ってくる。冷たくて、広くて、どこにも壁がない。
王宮の壁より、よほどましかもしれない。
まだ、わからないけれど。




