第10話 番
翌朝、ガルドの天幕の前に四人の女が並んでいた。
ナディア、ユーリヤ、サーシャ、イレーネ。
全員の顔が、妙に真剣だった。
これは、私が聞いた話だ。後からユーリヤが教えてくれた。だから、ユーリヤの言葉を借りて書く。この人は話を盛る癖があるから、細部は怪しい。でも、大筋は合っているだろう。
ナディアが口火を切った。
「族長。一つ聞きたい。セラフィナに番の儀をする気はないの」
ガルドが黙った。
「黙ってても分かるわよ。昨夜の交渉の後、あんたの顔見たもの。私たちは四年、三年、二年、一年。あんたの顔を見てきた。あの顔は初めてだった」
ガルドは答えなかった。
ユーリヤが腕を組んだ。
「あんたがやらないなら、私たちが推薦するわよ。番の儀の手続き、妻の過半数の賛同が要るんでしょう。四人中四人、全員賛成。文句ある?」
サーシャが小さく手を挙げた。
「私も賛成です。あの人がいなくなったら、帳簿が回りません」
「サーシャ、理由それ?」
「他にもあります。でも、うまく言えないので」
イレーネが一歩前に出た。
「各氏族への根回しは済ませたわ。番の儀はあくまで『魂の伴侶』の宣言であって、政治的な序列には影響しない。この解釈で長老会議も了承済み。カザル殿も、渋々だけど反対はしなかった」
ガルドが口を開いた。
「番の儀を行えば、俺は今後、政略婚で新しい同盟を結ぶカードを失う。それでも構わないと言うのか」
ナディアが短剣の柄を叩いた。
「構わない。あの女がいなくなる方がよほど困る」
「同感」
ユーリヤが言い、サーシャが頷き、イレーネが小さく微笑んだ。
ガルドが何を言ったのかは、ユーリヤも教えてくれなかった。「あんたが自分で聞きなさい」と言われた。
夕方。
ガルドの天幕に呼ばれた。
天幕に入ると、いつもと違った。卓が片付けられている。地図も帳簿もない。代わりに、天幕の中央に毛皮が敷かれ、燭台が四つ、四隅に灯されている。
ガルドが立っていた。
正装だ。初めて見る。銀糸の刺繍が入った深い藍色の上着。獣骨の留め具。腰に帯刀はない。
天幕の入口の外に、四人の妻たちが立っている。見届け人だ。番の儀の手続きに必要な立会人。
ユーリヤが小さく手を振った。
「座ってくれ」
ガルドの声は低かった。いつもより。
毛皮の上に座った。ガルドが向かいに座った。膝と膝の間に、燭台の灯りが揺れている。
「俺は言葉が下手だ。だから一度しか言わない」
金の瞳が、私を見ている。逸らさない。今日は逸らさない。
「お前が来る前、俺はこの部族をどう守ればいいか分からなかった」
声は平坦だ。いつもの平坦さだ。でも、その平坦さを保つのに、力を使っている。喉が微かに動いている。
「交渉はできない。帳簿は読めない。祭りの仕切りもできない。親父がやってたことが何一つできなくて、お前が来て、全部回り始めた」
息を吸った。
「お前は俺に足りないものを全部持ってた」
一拍。
「だがそれは、お前を必要とする理由であって、愛する理由じゃない」
燭台の炎が揺れた。
「俺がお前を愛しているのは——」
声が詰まった。
詰まって、飲み込んで、もう一度出した。
「お前が寒いと言った翌朝に、毛皮を届けたくなるからだ」
コート。
あの朝、天幕に置かれていた、差出人のない毛皮のコート。
「お前が笑うと、祭りの篝火より明るいからだ」
「お前が誰かに傷つけられると、俺の中の何かが壊れるからだ」
南方連合の使節に条件を引き上げた、あの時。
刺客が来た夜、天幕の前に座っていた、あの夜。
「コートを届けたのも、あの夜座ってたのも、あの使節に——いや、あれは」
口ごもった。少しだけ目を逸らして、戻した。
「……あれも、俺だ。全部俺だ」
全部。
「理由はそれだけだ」
ガルドの声が、少しだけ震えた。
この人の声が震えるのを、私は初めて聞いた。
「足りないか」
涙が出た。
止められなかった。止める理由もなかった。
前の人生では泣かなかった。泣く暇がなかった。今の人生でも泣かなかった。泣いたら負けだと思っていた。
でも今は、勝ち負けの話ではない。
「足りすぎて」
声が震えた。こっちも不格好だった。
「困ります」
ガルドが懐から何かを取り出した。
銀細工の首飾り。細い鎖に、小さな月の形をした飾りがついている。
母の形見。
『お前の番が見つかったら渡せ』。
ガルドの手が伸びた。硬い手。剣胼胝のある、大きな手。
首飾りが、私の首にかけられた。銀が鎖骨に触れた。冷たい。でも、すぐに温まった。
天幕の外で、ナディアの声がした。
「……終わった?」
ユーリヤの声が答えた。
「終わったわよ。泣いてるわ、あの子」
「セラフィナが?」
「セラフィナが」
サーシャの声がした。少し鼻声だった。
「私も泣いていいですか」
「勝手に泣きなさい」
イレーネの声は平坦だったが、鼻をすする音が混じっていた。
ガルドが小さく息を吐いた。笑ったのだ。
この人の笑い方を、私は初めて聞いた。
低くて、短くて、不器用で。温かかった。
半年後。
王国で、聖女の位が正式に剥奪された。偽神託の証拠により神殿から追放。聖女派の五貴族家は利権を失い、四家が没落した。残る一家、バルトロス侯爵家は、早々に聖女と手を切って生き延びた。あの穏やかな声の侯爵は、逃げ足だけは速い。
義妹マルグリットは偽証の罪で社交界から追放された。父の後妻と共に、地方の修道院に入ったと聞いた。
父からの手紙には、一行だけ追伸があった。
——元気でいてくれ。
王太子アルヴィンは、第二王子に王位を譲った。自ら北方の辺境領に赴任したという。
イレーネの情報網が伝えてきた彼の言葉を、私はしばらく考えていた。
——自分で調べもせず人を断罪した僕に、王座に座る資格はない。せめて、彼女が整えた北方の地で、自分の手で何かを作り直す。
許す気はない。
でも、嫌いになれなくなった。遅すぎたとしても、自分の足で歩き出す人間を、嫌いにはなれない。
後宮の天幕で、妻たちとお茶を飲んでいる。
ナディアが焼いた菓子が卓に並んでいる。焦げている。いつも通り焦げている。でも、中は柔らかい。この菓子は焦げた表面を剥がして食べるのがコツだ。十ヶ月かけて覚えた。
サーシャが茶を淹れている。最近、エストリアから取り寄せた茶葉を混ぜている。部族の赤い茶に、少しだけ甘い香りが加わった。帳簿の上に茶のシミがついている。サーシャは気にしていない。前は気にしていたのに。
ユーリヤの子どもたちが天幕の中を走り回っている。リーナが私の膝に登ってきた。
「セラおねえちゃん、きょうのおほしさま、まだ?」
「まだ。暗くなったらね」
「やくそく」
「約束」
イレーネが最新の噂を語っている。南方連合の内紛、エストリアの新しい王子の婚約、フェルディアの港の改修。この人の情報量は相変わらず底が知れない。
天幕の入口の布が揺れた。
ガルドが入ってきた。
無言で、私の隣に座った。手を伸ばして、ナディアの菓子を一つ取った。焦げた表面をそのまま食べた。顔色一つ変えない。この人は味覚が鈍いのか、それとも不満を顔に出さないだけなのか、十ヶ月経っても分からない。
「そういえば」
ナディアが菓子を焼く皿を拭きながら、ぽつりと言った。
「セラフィナの天幕の二重張り、あれ、到着した日の夜に族長が直接張ってたわよ。部下に命じたんじゃなくて、自分で」
手が止まった。
到着した日。
最初の夜から。
ガルドがナディアを見た。ナディアは知らん顔で皿を拭いている。
「……なぜ今それを言う」
「別に。思い出しただけ」
ナディアの口の端が、わずかに上がっている。
首元の銀の首飾りに触れた。あの夜から、ずっとこの人は。
何も言わなかった。
何も言えなかった。
ガルドも何も言わない。
何も言わなくていい。
天幕の外で、風が鳴っている。草原の風。乾いて、冷たくて、広い風。
この風を知らなかった頃の自分が、もう思い出せない。
ナディアの菓子の焦げた部分を剥がしながら、思った。
幸せって、こういうものなのかもしれない。
劇的ではない。
綺麗でもない。
菓子は焦げてるし、帳簿にはシミがあるし、子どもは膝の上で暴れてるし、天幕の隅にはまだ乾いていない洗濯物がある。
でも、温かい。
隣に、何も言わない男が座っている。
向かいに、四人の妻たちがいる。
膝の上に、星を待っている子どもがいる。
これが、私の居場所だ。
王宮でも、前世の会議室でも、どこでもない。
ここだ。
私は、毛皮のコートの袖口で目元を拭った。
泣いてはいない。
ナディアの菓子の煙が目に染みただけだ。きっと。




