タルタロス行脚
タルタロスを進んでいくと、よく分からない連中と出会うことになった。
天井が吹き抜けになった部屋で岩を積み上げている男がいたが、どうにも根性が腐っていそうな感じなので話をしようとも思えなかった。
その男もこちらが見えていないようであり、地獄の刑罰はこういうものかとトミーは思った。
そのようなことで、車椅子を押しながらに進んでいると、何やらメシは食えない水は飲めないという有様で、身体を石にされた男がいる。
餓鬼道みたいやなあとトミーが思った通り、それに似た刑罰を受けているロクデナシであった。
ロキは話しかけるなというし、どうせ話しかけても人を騙してきそうなのでそっとしておくことにする。
「陰気なとこやなァ」
トミーが言えば、ロキは呆れたような顔をした。
「ここは地獄みたいなものだからな」
「よくもまあこんなとこでお産しようと思ったもんやで……。それで、マシそうな場所って心当たりあるん?」
「ああ、ここには産屋があるはずだ。無い訳が無い」
ロキの言葉に不穏なものを感じたトミーだが、病院に行けないのだからそうするしかない。それなら、心当たりに賭けるだけだ。
「ロキさん、どうせ危険なんやろ?」
「今さら、何を言っている」
ロキが小さく笑うので、トミーは笑みを返した。
車椅子を押しながら、陰気な景観のタルタロスを進んでいく。
時間の感覚は曖昧だ。きっと、ここが冥界だからだろう。時間と移動距離は比例しない。ロキにはそれが理解できても、トミーには分かるはずないことだ。
さらに進む。
井戸から水を汲むことを繰り返している女たちの隣を通り過ぎて、さらに奥深くへ。
巨人たちが閉じ込められている檻の隣を通り過ぎる時には、鼻が曲がりそうな悪臭に辟易とした。
「刑務所いうんは、いつ来ても景気悪いわ」
トミーは独り言をこぼす。
「経験があるのか?」
清美を乗せた車椅子の車輪が石畳を行く音が響いた。
「ん、ああ、前にちょっとなァ。そんな大したことはしてないんやけどな、馬鹿なことして捕まったことがあるんよ」
苦笑いと共にトミーは言う。そこに後悔の色は無い。ただ、痛みの残滓だけ。ロキにもそれは感じ取れた。
ロキは何かトミーのために言おうとした。しかし、いい言葉は見つからない。ロキとトミーは似ている。同じように後悔だけは多くて、反省などしていないから適切な言葉など見つかるはずがない。
そうしている内に、明らかに異質な扉を見つけた。
「ここだ」
巨人にしか開けられない巨大さの青銅の扉であった。
扉にはギリシアの神、それも最高位にある者にしか視認すらもできない何かが彫り込まれている。ロキにも、それが力ある言葉を刻んだものであるとしか理解できない。
「なんや、ヤバいんちゃうか?」
「ここしかない。隠れ兜を使っている今なら、気づかれないですむだろう」
ハデス氏から借りた隠れ兜は車椅子にひっかけている。これで最も危険なものからは隠れているということだが、ヘカトンケイル以上に危険なものなどトミーには想像がつかない。
「で、どうやって開けるのん、このドア。でかすぎるやん」
「俺の半分は巨人だ。開けることくらいは……」
ロキが力を行使しようとする前に、扉はゆっくりと開き始めた。重苦しい金属の軋む音と共に、部屋の中が見えてきた。
「おっ、すげえやん。超能力やな」
トミーにも、危険が顎を開いたのだと知れた。開けてはいけない扉であると、本能で察知できる。それは、人が生まれつき持ち得た原始的なものだ。
「馬鹿者め、俺は何もしておらん。招かれているのだ」
「うわあ、招かれるってロクなことあらへんやつやなあ。あん時と同じやんけ」
訳の分からないものに招かれて、トミーは妖怪の相撲勝負に巻き込まれたことがある。
「しゃあないな。行かなあかんしなァ」
トミーは言うと、車椅子を押して進む。ロキは驚いた顔をした。
「怖くないのか?」
「怖いに決まってるやん。まあロキさんは、ゲームとか映画とかにも出演してはるし、なんや危ない時は頼りにしとるで」
こんな時だというのに、ロキは笑ってしまった。
「妙なヤツだよ、お前は。行こう、そこが産屋だ」
開きつつある扉の先には、闇が広がっている。
そこへ車椅子を押して進めば、部屋の中は広大な星空であった。
上も下も無い。満天の夜空に放り出されたような、宇宙にも似た輝く暗黒の中にいる。
「おおおっ、なんやこれっ。ガンダムで見たヤツやっ」
トミーはガンダム世代である。
「まさか、ここまでとは……」
ロキは異国の神だ。だからこそ、タルタロスの産屋がここまでのものと想定できていなかった。想定以上なことは喜ばしいことだ。ここは、全ての条件を満たしている。
「ちょっと、ここなんなんや」
「ここは原初の大地母神と奈落の産屋だ。ここでなら、どんな怪物でも産まれることができる」
ギリシア最大の怪物、テューポーンはここで産まれた。
主神を追い詰める怪物であり、不死ゆえに退治されず永劫に幽閉されている。その怪物が産まれたのが、この空間であった。
異様な空間を見回して、トミーはなんともいえない渋い顔をした。
「ロキさん、怪物ってああいうの?」
トミーが指さす先に目をやれば、星空の暗黒を斬り裂いて近づく巨大な鳥がいる。
いや、鳥に見えたのは間違いだ。全体的なシルエットが鳥に似るというだけで、上半身は鳥に人の手が生えたものであり、下半身は大蛇であった。そんな異形の体に、人の頭をつけた怪物である。
『オオオオ、我が牢獄に来たりは誰ぞ!!』
その声は、頭の中に直接響く原初の声。言語より先にあった、神のやる交信である。
「ぬわああああ、頭ン中に直接はやめてやっ。なんやこれ、ほんまイヤっ」
声で頭がガンガンする。二日酔いで遭遇する選挙カーより辛い。
「ぐっ、これは……」
ロキは車椅子の清美を見やる。彼女にも、子供にも変化はない。隠れ兜は機能してくれていた。
「誰やお前えっ。頭ン中に話しかけんのやめてっ」
『テューポーン、我が名はテューポーン! この世を喰らい尽くすモノである』
「分かったから、音量下げてっ! あかんて、もうちょっと、この半分ッ」
『フハハハハハ、我が忌まわしき牢獄に何をしに参った』
ロキは打開策を見つけようとするが、何も無い。
タルタロスは現世ではない。だからこそ、テューポーンには何の枷もかかっていないのだ。つまり、世界を滅ぼす怪物としてそこにいる。異国の悪神が手出しできようもない相手だ。
「今から説明するからっ。テューポーンさんっ、ちょっと音量下げてって。マジで!!」
『幾千年にも及ぶ退屈に飽きがきておったわ! 人間よ、何を望む』
「音量下げろって言うてるやろっ!」
トミーの叫びはテューポーンに通じた。
『脆弱な人間めが! 貴様のような者がどうしてタルタロスの奥深くまで来た』
「まだしんどいけど、これくらいの音量やったら我慢できるわ。ありがとうな。この部屋? ウブヤ? ちょっと借りていい?」
トミーはテューポーンを見上げて言う。
あ、こいつはヤバいな。とトミーは思って、それが間違っていないと直感で理解した。
テューポーンはヘカトンケイルとは違って、言葉でなんとかできる相手ではない。
ヤクザを相手にした時にもままあることだが、言葉でなんとかできるヤクザと、なんともならないヤクザがいる。
後者は、日本語を話しているのに言葉以外のコミュニケーションを行っている。そういう手合いは、言葉が通じているのに会話が成立しない。眼前の怪物はまさにそれと同種だ。
『ヒッヒッ、ハハハハ、ここで貴様のような人間とちっぽけな神が何をするのだ』
質問のようで、質問ではない。返答も無意味だ。トミーにもそれは分かっているが、この手合いに無視は悪手。しようものなら、死ぬような暴力を振るわれる。
「色々あって、友達の奥さんの出産に使いたいんや。あかんか?」
『ほう、この俺が生まれた場所で、とるに足らぬ者を産もうというのか』
トミーは口元をへの字に曲げた。
妖怪を相手にするのは、ヤクザを相手にいるのと似ている。コントロールしようだとか、理詰めで会話をしようなどと考えてはいけない。
トミーはクソ妖怪、クソヤクザ、生きてる産廃、色々な罵詈雑言を頭の中で思い描く。怪物には慣れたが、こういうクソ野郎にはいつまでたっても慣れない。
「ハデスさんには許可取ってるで。それでもあかんのか」
こういう時は組長の名前を出す。嘘で名前を出すと不味いことになるが、今回は本当だから問題ない。しかし、別の問題はある。
『我が仇敵の兄か……』
これだ。ヤクザ同士の人間関係によっては、上役であっても名前を出すだけで状況が悪化する。
トミーはロキに目配せした。最悪の場合は逃げてもらうしかない。
ロキであれば、清美を逃すことができるだろう。外にさえ出ることができれば、あの様子だとヘカトンケイルも悪いようにはしないだろう。
「その辺りよう知らんのやけど、敵いうからにはそんな憎いんか? 知らんから教えて欲しいねん」
時間を稼ぎたい時、自分から喋るより相手に話させるのがよい。特に、嫌いな相手のことというのは、どこまでも話してくれる。
『彼の一族は生まれながらの仇敵である! 母の怒りによって俺は生み出されたのだ! 卑劣な手段さえ講じられなければ、世界を焼き尽くしたというのに』
「そうかあ、それは大変なことやなあ。お母さんは、なんで怒ってたんよ」
『憎きゼウスの増上慢! 彼奴こそが血縁の裏切者である! とくとその悪行を聞かせてやろう!』
「あー、凱旋の天国モードな」
そこから始まるテューポーンの恨み節の数々。
トミーは出てくる知らない名前については適当に聞き流しつつ、いかにゼウスらが悪行をやったか。そして、怪物の母を苦しめたかに聞き入った。
怒りのエピソードというのは不思議なもので、しっかり聞くとそれがどういうものか分かる。憎悪か、それとも怒りか。
テューポーンのそれは、紛れも無い憎悪だ。しかし、ゼウス本人への憎悪はどうにも薄いように感じられる。
トミーは聞き入りながら、テューポーンが面倒なヤツだということが分かってきた。
『あの悪辣な女共によって騙されなければ、俺はこのようなところには!』
「なあ、テューポーンさん。ゼウスとのケンカって一人でやってたんやろ?」
トミーはゼウスを呼び捨てにする。ハーデースと同じく、ゼウスが主役のパチスロ台があるのだが、その台が嫌いだからだ。※パチスロ台自体は非常によく出来ており、大ヒットしています。
『その通りだ。最強の俺がいれば、助太刀など不要。足手まといである!』
「結果はどうあれ、そんだけやったんや。お母さん、喜んだやろ」
饒舌だったテューポーンが、少しの間だけ押し黙った。
『母は……』
続けようとした所に、トミーが被せる。
「テュポーンさん、それはそうとお父さんはどんな御方なんや。そういえば、聞いてへんかったな。教えてぇよ」
今のテューポーンの沈黙には、痛みがあった。触れてはいけない類いの痛みである。
誰にでもそんな痛みがある。一生抱えていくしかない、癒えない傷だ。心のどこか、薄暗い記憶にそれがある。
その痛みにだけは触れてならないと、トミーは知っている。神だろうと人だろうと、関係ない。
『父は、ここタルタロスにおられる。奈落そのものが、父である』
トミーは意を決した。どうせ、やらないと死ぬだけだ。
「おーい、テューポーンさんのっ、お父さん、ちょっと出てきてえな。ええやろ、おれは話したいことがあるでっ」
『ハッハッハッ、馬鹿なことをするものだ。人の呼びかけなどに応じるものか』
星空の闇の中から、星空を塗りつぶすかのような闇が空間を引き裂いて現れる。
ギリシアにおける奈落そのもの。
冥界が生まれるより以前から存在し、世界の存在よりも以前の【あちら側】そのものを司る神。他宗教では【光あれ】と呼ぶ前にあった闇そのもの。
奇しくもこの牢獄は、その神と名を同一とする。
奈落の神タルタロスが、トミーの呼びかけに応じ顕れ出でた。




