いざタルタロス
朝早く、小夜子の町にある神社に皆で出向いた。
ハデス氏のご一家とロキとその妻子。そして、小夜子と目羅博士が境内で、最後の確認をしていた。
そんな中、トミーはケルベロスを撫で回して遊んでいる。
もしもの時に備えて、返矢左京の率いる術者が神社の外に待機していた。そこには、若松と千草の姿もある。若松は小夜子の傍にいることを望んだが、返矢が引き止めていた。異界に飲み込まれた時、小夜子をこちら側に戻すのは若松の役目だ。
時刻は午前九時。
目羅博士は奇妙な気分になっていた。
元々、魔道士として人に紛れて生きる恐竜人の異端者であったというのに、どうしてこんなことに。さらに奇妙なのは、今はこの状況が楽しくて仕方ないということだ。
「間宮さん、正気とは思えませんよ」
老紳士の姿は目羅博士も気に入った仮初の姿だ。人間に生まれていたなら、これくらいの年齢である。それなら、こんな美意識でいただろうという姿であった。
「目羅博士よ、わらわにケンカを売った者が何を言うとるんじゃ。いまさら、伊邪那美様が怖いとは言わんでおくれ」
「いえいえ、そんなことではありません。あなた方は、どうして私がここに来て裏切ると考えないのですか?」
「わらわは全く信じておらんが、トミーはお前のことを信じておるじゃろ。なら、わらわは何も言わん」
目羅博士は心底嫌そうな顔になり、何か言おうとしたが言葉に詰まった。
何かいい返しを言葉にしようとしてトミーを見ると、ケルベロスの三つの頭を撫で回して遊んでいる。
「はは、何を言い出すかと思えば、この私がそんな情を持つとでも」
そうは言ってみた目羅博士だが、強がりが見え見えだ。
「いつものキレが無いではないか。ま、意地悪はここらで勘弁してやろうぞ。わらわが邪魔者を引き受けるからの。博士よ、頼んだぞ」
目羅博士は安全装置の役割だ。現世との境界を維持する術を行使する手筈であった。神というものは、こういった術を使えない。だからこその人選である。
「気に入らん小娘め」
今度こそ目羅博士は顔を歪めて感情を吐露した。
「ほほほほ、やったらやり返されるものじゃ」
目羅博士はそっぽを向いてしまう。
小夜子らがそんなことを話している一方で、ロキは車椅子で眠りこける妻の髪を整えて、臨月の腹に耳を当てていた。
子供の声は聞こえない。しかし、それが我が子であることだけは分かる。
「頼むッッ!」
ロキが振り向くことさえせずに言う不遜なそれは、彼の精いっぱいの頼みだとハデス氏は理解していた。
不器用なそれに、傍らのペルセポネが柔らかい笑みを浮かべる。
「この冥王、聞き届けたり」
言葉はそれだけでいい。
奇縁に導かれてここまで来た。そして、永劫に叶わぬと思われた、夏の日の妻と出会うことまでできた。
ペルセポネがハデス氏の頬を撫でる。
「冬以外で、あなた様と会えるなんて夢にも思いませんでした。その恩に報いましょう。ケルベロス、おいで」
冥界の女王の声に、トミーと遊んでいたケルベロスはその身を翻して戻ってくる。
トミーも、始まりを悟った。そして、ハデス氏たちに近寄る。
「おっ、もう始めるんやな。ハデスさん、色々ありがとうな。それに、奥さんも」
ギリシアには幾多の英雄たちがいる。トミーはその誰とも似ていない。だというのに、家族の恩人とも言える。叶わぬはずの夢想を現実としたのは、この奇妙な中年男に他ならない。
ペルセポネがトミーに微笑みかける。
「あなたが夫と出会ってくれたことに感謝します。さあ、これをお待ちになって」
ペルセポネは虚空から果実を取り出した。それは、季節外れの柘榴である。
「おっ、これは丁寧に。ありがとうね。……なんやったけこれ? この果物の名前」
「ふふ、それは【ざくろ】です。どうしても必要になった時は、それを」
ハデス氏が何か言おうとするのを、ペルセポネが止めた。
「そうそう、柘榴やったっけ。馴染薄いと名前忘れてまうよなァ。まあなんや変わったもんなんやろ。どうしようもなくなった時に食べたらええんか?」
ペルセポネはうなずく。
「ええ、その時が来たら」
トミーは困ったような顔で笑う。言外に、大ピンチの時以外は食べるなと言っている。
「なんや参るな。うん、でもありがとう。大事にとっとくわ」
受け取った柘榴はビニル袋に入れておく。手は空けておきたかったので、ベルトに縛りつけておいた。
「さあ、そろそろ始めよか」
トミーが音頭を取った。
タルタロスまでの道を開き、そのままハデス氏のご一家は冥界へ戻る。そして、ロキとその妻である清美とトミーが中に入り出産を済ませた後に出てくる手筈だ。
ロキだけでは、出られない可能性が高い。結局のところ、冥界から生きて逃げ帰るというのは人間の成功率が高いのである。
ハデス氏らは神としての姿に変じる。
もはや見慣れてしまった、歴史的には有り得ない鎧姿のハーデス様とペルセポネ様とケルベロスであった。ペルセポネ様はビキニアーマーが恥ずかしいご様子。
ハーデスが気合と共に二又の槍を地面に突き立てる。
おお、なんということか!
地割れと共に地面が陥没し、冥界へと続く道ができるではないか。
地下へ続く道を下れば、そこから先には広大な冥界が広がる。しかし、今はあふれ出る力でタルタロスへと直通の道を繋げたのだ。
「トミーさん、先に参ります。ロキよ、無事でタルタロスまでたどり着け。ケルベロスよ、ここを門として守るがよい」
ハーデスとペルセポネは吸い込まれるようにして姿を消した。ケルベロスが遠吠えを上げる。
小夜子は辺りの気配が変わったことに気づいた。
「皆の者、来るぞ。ロキ様、トミー、早う行かれよ」
ロキが小夜子を見る。異界からの怪物が味方になったのは、トミーのおかげだ。
「小娘よ、感謝するぞ」
「小夜子ちゃん、また後でな」
車椅子を押すロキとトミーが駆けだす。冥界ではロキも権能を行使することは難しいだろう。だから、トミーと一緒に駆けていく。
目羅博士は異様な言語を口から発して術を維持している。この術は、冥界の入り口の維持と伊邪那美様への妨害である。
「……来よったか」
神社の境内のそこかしこの地面から穴が開いて、土の中から仏教の地獄絵で見られる鬼や、槍や剣を手にした亡者が現れる。
日ノ本では、神と仏のどちらもが【合いの子】を生まれさせまいとする。それは古より続く呪詛に他ならない。
「目羅博士よ、死んでも術は維持せいよ。ケルベロス様、入り口の守りは任せますぞ」
ケルベロスの咆哮は、地獄の門を守るに相応しい力強く禍々しいものであった。
小夜子もまた、人目など気にする必要がないとなれば、思い切り暴れられる。その美しい手を、人のものではない触手へと変えた。
「オルフェウスか耳なし芳一でも来ぬ限り、門は突破できまい。ならば、わらわも遠慮はいらぬ」
小夜子の手が鬼の首を刎ね飛ばす。しかし、冥界の鬼に死は存在しない。ばたりと倒れた後に、その首を拾い上げて復活する。
同じように襲い掛かってくる伊邪那美様が放ったであろう亡者、黄泉軍も不死であった。引き裂かれても、少しの時間があればむくりと起き上がって復活する。
「ほほほ、わらわはそういうのが一番得意じゃ。飽きるまで喰らい合おうぞ!」
修羅地獄の有様は、異界邪神トイレの花子さんと繰り広げた魔戦と似ている。
小夜子の最も得意な戦いは、これだ。
トミーとロキは車椅子を押して坂を下っている。
ロキは清美の身体に負荷をかけないようルーン魔術を用いているが、飛ぶように走るということはできないでいた。
冥界でロキの力は発揮されず、やれることといったら清美を車椅子から落とさないように、極力衝撃を与えないようにするだけだ。
しばらく走ると、坂道は思ったよりも短いというのに、天井が見えないほど高い地下深くにたどり着いていた。
バケモノに襲われると思っていたが、そういったこともなく第一関門は突破できたということだろう。
「ロキさん、この辺りか」
「む、少し待て。入り口が隠されている」
ロキは懐から取り出した石を前方に投げた。すると、小さな音と共に、術が解けて何も無かった空間に巨大な青銅の門が現れるではないか。人では到底開くことのできないであろう門は、すでに開け放たれている。
「おおっ、すげえっ」
トミーはこんな時でも、どこか楽し気だ。海外の観光地でも見れない絶景であるのは間違いないが、何も恐れていない。
「タルタロスの入り口だ。行くぞ」
「なんや凄そうやなァ」
ロキが先を進むため、トミーが車椅子を押して門を潜る。
その先は異様に天井が高い石造りの建築物であった。あまりにも大きすぎて、どういった建物なのか想像もつかない。
「あっ、この感じ。めっちゃ拘置所に似てるやないか」
トミーには分かる。
拘置所には何度かぶち込まれているため、独特の雰囲気が分かる。牢獄とか拘置所とか、そういった場所独特の雰囲気があった。
「ここは巨人を閉じ込めるための牢獄だ」
「目的地はここでええんやろ? どっか、よさそうな場所を探そうや」
「それには、ここの管理者に話を通さねばならん」
「ハデスさんやないんか、それ」
「違う。来たぞ」
地面が揺れた。
どすんという地鳴りのような音が足音だと気づいたのは、目の前の巨人を視認できたからだ。
「タルタロスに半巨人と人間が来るとは、何用か」
大地を揺るがすほどの声であった。
見上げれば、あまりにも醜い巨人がいた。五十の頭に百の腕を持つ怪物ヘカトンケイルである。
ギリシア神話においてはゼウスを救うまで、その醜さ故にここタルタロスに閉じ込められていた存在だ。
「ハーデースの許しを得て参った。俺は異国の神であるロキという者。我が子の出産のため、邪魔の入らぬ場所を探してタルタルロスへ来た」
堂々とロキが名乗る。嘘は言わない。
「ハーデースは冥界の王。ここタルタロスは冥界よりさらに深き我が住処。かの冥王に免じ門は開けても、半巨人の頼みはやすやすと聞けぬ」
トミーは、うわ面倒くせえ、という言葉を飲みこむ。仰々しく言っているが、ヤクザの縄張り争いみたいな難癖だ。
「ならば、頼む。ここでなくば、我が子は無事に生まれることができんのだ」
ヘカントケイルに対抗する手段など無い。ロキができるのは頼み込むことだけだ。
「ティーターンに与する者は、ここタルタロスに繋がれる宿命。のこのことやって来た貴様は飛んで火にいる夏の虫であったな」
うざってえなあ、とトミーは思った。
そうするというのなら、もうやっているはずだ。力を取り戻したロキならいざ知らず、今のロキがでかい巨人になんて勝てるはずがない。それを分かっていてヘカトンケイルも言葉遊びをしている。
「あー、ちょっとええか。巨人さーん、名前なんていうのっ?」
トミーが大声で語り掛けた。
「ほう、人間が我が名を知りたいというか。我はヘカトンケイルの一族、個別の名は持たぬ」
トミーはまたしてもうざってえなあと思う。
ヤクザだと思ってたら、ヤクザが休日に趣味でやっている右翼みたいだと思ったからだ。
「ヘカトンケイルさんなっ。悪いんやけど、子供さんが生まれはるんよっ。地上やとなっ、よってたかって邪魔ばっかされてまうからこっち来たんや。あんた、顔を合わせてるんやからっ、場所くらい貸してぇよっ」
ヘカトンケイルの五十もある顔。その全てが眉間に皺を刻んだ。
「愚かな人間め、なぜ我らが貴様らに力を貸すと思う」
「妊婦さんがいてはんねやっ。あんたらかてっ、親から生まれたんちゃうんかっ!」
「ぬう、父は我らが醜いからといってここに閉じ込めたものぞ!」
巨人の言葉に、トミーはすぐピンと来た。都合の悪いことを言わないヤツの言い方というのは同じだ。人であれ神であれ変わらない。あえて触れないところがある。
「その言い方やとっ、お母ちゃんはそうやないやろ! ロキさんがなあ、そんな理由で子供捨てよったらおれが殴る。それでも嫌なんかっ? ヘカトンケイルさんよお、この子が産まれたらあかんって言うんかっ。どないやっ」
トミーのそれは論点のすり替えだ。
「そのようなことは言っておらぬ」
「言うんてのと同じやろがいッ。地上で産もうとしたら、邪魔が入って殺されるんやっ。お母ちゃんと子供が死ぬとかっ、理不尽や思えへんのかいっ」
今度こそ、ヘカトンケイルは言葉に詰まった。
ロキとトミー、そして、眠る清美の大きな胎。彼らに、ヘカトンケイルの百の瞳がめぐるましく見移りしていた。
「うぬぬ、生まれる者に罪は無いと申すか」
「ある訳ないやろっ!」
断言というものは強い。何の根拠も無くとも、非常に強い言霊となる。
「生まれることすら許さぬなどという権限は我らには無い。奥に進めば落ち着ける場所もあろう。しかし、ここタルタロスは恐るべき怪物が幽閉されておる。無事に行くかは分からぬぞ」
ヘカトンケイルが折れた。最初から、立ち入ることを禁じられたものでもなければ、ここで出産をしてはいけないという決まりもない。
「よっしゃ、話が分かるやんけっ! ヘカトンケイルさん、ありがとうな」
「ふんっ、礼を言われることではない。人間よ、貴様の名は?」
「浪野富雄。友達からはトミーって呼ばれてる。トミーって呼んでくれてええで」
ヘカトンケイルは妙な唸り声を発した。
どこの世界に五十頭百手巨人を友達などと呼んでくる人間がいるというのか。
「我の気が変わらぬ内に進むがよい」
「ありがとうなっ。今度来る時はなんか土産持ってくるわっ」
ロキはトミーを信じられないという顔で見ていた。
こいつはなんなのだ、とも思う。かつて親交のあった英雄たちとも何もかもが違うというのに、神の試練に等しい難題をすり抜けてしまう。
「ロキさん、はよ行くで」
「あ、ああ、行こう。ヘカトンケイルよ、恩に着る」
「さっさと行け!」
ヘカトンケイルに見送られて、彼らはタルタロスの奥へ奥へと進んでいく。
神への反逆ともとれる冥界下りはまだ終わらない。




