さらばタルタロス
あ、これはあかん。トミーはそう思った。
テューポーンも相当あかんレベルが高いのだが、この暗闇としか表現できないものは文字通り次元が異なる。トミーの知る物差しで測れるようなものですらない。
『父上……、まさか拝謁できる日が来ようとは』
テューポーンの声は相変わらず頭の中に響く。
この言葉にも痛みがあった。それは、トミーの嫌いなものだ。
「くっそ、ほんまもう。なんなんや」
人間というのは、一回でも楽を覚えたら我慢しなくなる。できなくなるのではない。しなくなるのだ。
トミーが我慢をしなくなったのはずっと昔のことだ。それからずっと、今まで我慢していない。誰かが痛そうにしている時、浪野富雄という男は我慢しない。
「えっと、そこの銀河鉄道の車掌さんみたいなんが、テューポーンさんのお父さんでええんか?」
おれは本当にダメ。いつもいつもこれをやって後悔して、いつになったら大人になれんねん。もう四十過ぎてるのに、頭の中が中学生のままや。そのように、トミーは頭の中で独り言を捲し立てる。
『貴様! 不敬であるぞ!!』
これにはイラっと来た。
「お前が言いたいの、そんなことやないやろがッ!」
やっちまった。いつもいつも、ほんとおれは馬鹿。そう思ったが、トミーは後先を忘れることにした。
「ちょっとお父さん、おれが言うのなんやけど、息子さんをこんなとこ閉じ込めてたらあかんで。見てみろや、テューポーンさん、なんやおかしい感じになっとるやないか!」
トミーは言い切った後に、大きく息を吸い込んだ。
恐怖で心臓が跳ねている。冷や汗でシャツはずぶ濡れだ。そして、足は震えていた。産まれたての小鹿みたいにガクガクぶるぶるだ。
溢れ出した闇は奇妙に蠕動しながら姿を変えていく。
クレイアニメのような動きで全体が小さくなっていき、シルエットは丸みを帯びた人型へと変わる。
ふわふわした質感の闇で出来た頭部に、緑色の光が二つ出現する。それは、戯画化された両目であった。
「私は奈落の神タルタロス。お前の呼びかけに応じてここにやって来た。トミーよ、お前の思考からこの姿を創り出してみたが、悪くない形だね」
奈落の神タルタロスは、男の声でそう言うとフォフォフォと笑う。アニメの声優さんがやるような、どこかユーモラスで芝居がかった喋り方だった。
「あ、さっきはいきなりで失礼しました。トミーです、よろしくお願いします」
タルタロスはうんうんと頷く。
「よいよい。分かっておる。テューポーンよ、お前のことはずっと見ていた。産まれてから一度もお前とは話したこともなかった。私の過ちだ。すまないことをした」
きっと、その言葉自体は嘘ではないのだろう。
『父上、おお、この俺にお声を……』
「テューポーンさんな、お父さんにもっと言いたいことがあったんちゃうんか。なあ、もっとあるやろ」
いつだって、世の中はこんなことばかりだ。
他人から見れば家族なんて単純なものだというのに、みんな苦しんでいる。どれほど幸せに見えても言葉にできない何かがあって、必要なたった一言をどうしても出せないひとがいる。
『無礼者め、父上の御前でなんという口の利き方をっ! もう我慢できん。死んで詫びろ』
テューポーンは言うが早いか、トミーめがけて口から炎を吐く。
人間など跡形も残らぬであろう、神話に語られる魔炎!
為す術も無いトミーは反射的に目を瞑った。死ぬと思ったが、痛みは襲ってこない。恐る恐る目を開けてみれば、タルタロスが手をかざして魔炎を吸収していた。
「トミーよ、私を呼んだのはテューポーンのためか。なんと愚かな星に生まれたものであろう。お前の命運は他者に使わねば輝くことはない。それを分かっていて、無垢なる声でこの私を呼んだのか」
トミーはタルタロスを正面から見る。
「助かったわ。タルタロスさんでええんやな? それはそれとして、お前、ええ加減にせえよ」
『貴様ッ』
「テューポーンよ、私が話している。黙れ」
ギリシア最大の怪物は、歯を食いしばって黙った。それは、トミーが見たくないものの一つである。
「奈落か奈良県か知らんけどなあ、自分のガキにそんなこと言うなやっ! テューポーンさんタチ悪いヤクザみたいになってるの、全部あんたらがこんなとこに押し込めてるからやろ。子供部屋おじさんとかそういうヤツやぞ」
実家住まいが悪い訳ではない。
テューポーンは自分で行く所を決める権利が無いから、怪物という役割に徹している。両親から望まれた怪物など、気の毒すぎて見ていられない。
「どうしてそう思う? 母の意志に応えようとする息子の心ではないか」
それも間違っていない。子供というのはそういうものだ。
「おれの姪っ子もな、最初に会った時にテューポーンさんみたいやった。自分がやりたいんやなくて、誰かのためにそうしとったんや」
トミーが小夜子に出会ったのは、小夜子が無垢な怪物であった小学生のころだ。
姉が亡くなったという報せを受けて警察に出向いたことで、トミーはようやく小夜子の存在を知った。
小夜子は何かに押し付けられた役柄をこなそうとしていて、ことさら邪悪に振舞っていた。それが、トミーには見ていられないほどに嫌だった。
トミーがやったのは簡単なことだ。
小夜子に全力でかまってやる。
子供相手にどうしたらいいか分からなくて、美味いモノを食わせたり、競輪場に連れて行ったり、古いゲームを買ってきて一緒に遊んだり。思いつく楽しいことをたくさんしたものだ。
そんなことが、タルタロスに分かるはずもない。
「人の尺度で神を語るか。なんと愚かな」
「苦しいのは一緒やろが。見てたら分かるわ」
タルタロスはテューポーンを見た。
テューポーンは黙れと言われてから、一言も発していない。父親の命令を守っている。怪物である彼は、トミーの言うことなど何一つ理解していないだろう。
怪物だからではない。知らないから理解できない。
奈落の神であり、奈落そのものであるタルタロスが声を発する。
「テューポーンよ、お前をそのまま出すことはできない。しかし、父はお前に知ってもらいたい。お前が怒りだけの怪物ではないと、ゼウスと対になる存在であると。故に、お前の一部を地上に送ろう。世を知るがいい。かつて、ゼウスがしたように」
『父上、どういうことですか! 俺は何をすればよいのですか!』
「様々なものを見るがいい。孤独に打ち震えるただ一匹の怪物として。そして、私の息子として」
テューポーンは暗黒の星々の中に吸い込まれていく。
タルタロスは、テューポーンをそのまま現世に送り出したのではない。ほんの一握り、いや、髪の毛の一本ほどもない欠片から肉体を創り出し、現世に送ったのだ。
「やり方、強引すぎへんか」
「トミーよ、お前が望み、私が望んだことだ。あれは今のままではゼウスには勝てぬ。ただの純粋な怪物では、傲慢と正義そのものであるゼウスとは勝負にもなるまいよ」
「ズル剥けの脂ぎったオッサンと純朴な少年やったら勝負にならんよなァ。でも、アンタのことは気に入らんで。親子やったら、他にあるんちゃうんか」
トミーのそれは願望に過ぎない。世にそうである家族など、それこそ存在しないかもしれない。
「私たちは人間と違う時間を生きているのだよ。それに、人間でもそれが出来ている者は少ないだろう。それは理解すべきだね」
「あんたが毒親なんだけは分かったわ」
タルタロスは愉快な気持ちになった。これほどの愚か者であれば、不遜な物言いも面白く感じられるからだ。
「トミー、お前の命運は他者に捧げねば自らを破滅させるものだ。私が言わずともお前はそうしているようだがね。努々それを忘れるな」
「ごめん、よう分からんわ。ああ、それと、ここ使ってええか?」
タルタロスは少しだけ笑った。声には出さないが、闇でできた身体は笑っているように見える。
「そこの【合いの子】か。ハーデースの顔を立ててやってもよいが、ここは我らにも特別な場所だ。タダという訳にもいくまい。」
タルタロスは清美を認識している。奈落の神には隠れ兜の権能ですら意味をなさない。
「使用料なァ。大したもんは出せへんけど、なんか欲しいモンある?」
タルタロスはトミーではなくロキを見た。
「異国の悪神よ。その子が人の子であることに耐えられるか?」
「俺の子であれば、それでいい」
タルタロスはゆっくりと車椅子で眠る清美へと歩を進めた。
「ならば、生まれ出でる新しき神を貰おう」
奈落の神は、清美の腹にそっと触れた。その手つきは、労わりの心があろう優しいもの。胎の中から母を守り続けていた【合いの子】に宿る新しき神の力は、タルタロスに吸い込まれていく。
命を吸っているのではない。強すぎる神の力だけを吸収している。
ロキは呆然とそれを見やる。
「なぜだ、なぜ貴方が祝福を」
「半巨人よ、お前にはそう見えているようだが、勘違いしてもらっては困る。この子に宿る強すぎる力を、ここを使うための代償として貰い受けるのだ。……そうでもせねば、私の顔が立たないものでね」
強すぎる力は争いを呼び込むものだ。出産が無事に為されていたとしても、ロキたちに安住の地はなかっただろう。
「タルタロスさん、なんや面倒なことするんやな。あんたのことは気に入らんけど、ありがとうな」
タルタロスが手を離すと、微かに清美は身じろぎした。二十年もの間、止まっていた時間が動き出す。
「トミーよ、お前が傾けた未来の行く末には私も興味がある。我が子もまた、魔王には至らぬ未来への道が出来た。その返礼も兼ねているのだよ」
「未来とか将来とか勘弁してくれや。おれは孤独死が関の山やで」
タルタロスは笑い声を発した。闇でできたぼんやりとした身体のどこから笑い声を出しているのだろうか。
「ふふ、ははははは。そうか、気づいてすらおらんか。未来が決まれば、また会うこともあるだろう。名残惜しいが、今はここまでだね」
ゆらりとタルタロスの姿が揺らぐ。元の闇へとその形を変えようとしていた。
「行ってまうんやなァ」
「奈落はいつもお前たちの隣にあると知れ。全ての者はいつかここに来るのだ」
トミーは呆れたように笑った。
「どんな挨拶なんよ。その世界観まったく分からんで。タルタロスさん、またな」
挨拶を聞き終えた闇が、星空に溶け込むようにして消えていく。
それと同時に、清美が目を覚ました。
「あなた、ここは……。ああ、お腹が」
「清美、目を覚ましたか」
「あなた、それよりっ、苦しっ、くるしい、なにこれ、お腹が、くるしっ、なにこれえっ」
清美のそれは陣痛であった。
今は人の子となった【合いの子】が止めていた時間は、すでに進んでしまった後だ。
「破水したか。すぐに準備をする、安心しろ。俺はスレイプニルを産んだことがあるから分かっている」
ロキがルーンを唱えると、異空間に用意していた産婆さんセットが虚空より現れる。
「おいおいおい、こんな突然かいなっ。大丈夫なんかっ。あ、奥さん、おれはトミーっていいます。ええと、ロキさんの友達なんやけど、えっ、というかおれが立ち会ってええんか!? こんなん聞いたことないで」
「お前は下がって騒がずにその辺で星でも数えてろ。清美、大丈夫だからな。経験者の俺がついているぞ」
ロキはかつて牝馬に変化しスレイプニルを出産したことがある。その時の経験が活きた。
お産というのは大変なものである。いつか来たると信じたこの日のために、ロキの二十年に及ぶ準備は万端。戸籍さえあれば産婦人科医になれる域にまで医学を修めているのだ!。
「なにこれっ、くるしっ、無理、無理いぃぃぃ」
改めて、お産というのは大変なものである。
「ルーンを使う、少しは楽になるはずだ。清美、がんばれ」
数時間後。
大地母神と奈落の神の産屋における加護とロキの努力で、清美は無事出産を終えた。
産後は母子共に状態は良好。本来ならば医療機関での経過観察も必要だが、そこは神のやること。ルーン魔術によって護られている。
子供は男の子だった。ただの、人間の男の子。
生まれてすぐだと、どちらに似たかなんてまるで分からない。
疲労困憊という状況だったが、ロキは高度なルーン魔術を行使して清美を守護すると産屋を出ることに決めた。
トミーもそこは夫婦の判断に委ねるしかない。
清美は母親の顔でロキに言う。
「ここがどこかとか、それは後で教えて。ロキ、この子はあなたに似てる。この子、わたしたちのこども」
「ああ、俺たちの子供だ。さあ地上に戻ろう。少し怖いところを通るから、清美は目を瞑っていてくれ」
「ううん、大丈夫よ。この子がいるから。……あっ、あなたはトミーさん? このご恩は」
「奥さん、そういうんは後でやりましょ。ご出産、おめでとうございます」
清美は笑みを浮かべる。疲れ切った顔だというのに、力強いものだった。
産屋は彼らの意思を読み取ったものか、扉を開く。
ロキが車椅子を押して、清美が子供を抱いて、トミーは先頭に立って産屋を出た。
「うわっ、なにっ」
清美が驚いて言った。そのまま口は開きっぱなしだ。
無理もないだろう。出迎えたのはタルタロス入り口で出会った巨人ヘカトンケイルだったからだ。
「ほう、無事に終えたようだな」
ヘカトンケイルはいかにも興味なさげなフリをしている。ずっと扉の前に張りついていたというのに。
「なんや心配してくれたんか。ええとこあるやん」
トミーの軽口に、ヘカトンケイルは憮然とした顔になる。五十もある頭全てがそんな顔になってしまうのも、見慣れると面白い。
「大いなる存在の気配を感じて馳せ参じたまでだ」
「あんたの家やん、ここ。そんな大げさに言わんでも」
「ええい、この産屋で産まれたのであれば、我らも祝わずにおれんのだ。このようなことを言わせおって、なんという連中か!」
ヘカトンケイルの物言いに、ロキも苦笑いを浮かべた。トミーと関わればそうなると知っているからだ。
「こういう時は祝うもんやからな」
トミーと話していると、ヘカトンケイルはなんだか恥ずかしいような妙な気持になってしまう。
「ああ言えばこう言いおって! よいか、我が入り口までの道を造る。さあ、早く地上へ戻れ」
ヘカトンケイルが「むん」と唸れば、空間に丸い穴が開いて青銅の門への穴が出現した。タルタロスの管理者ならではの奇跡だ。
ロキがヘカトンケイルを見上げた。そして、頭を垂れる。
「ヘカトンケイル……、ありがとう」
照れてしまったヘカトンケイルは、わざとらしくそれを無視する。
お祝いのショートカットワープホールを一行は潜った。タルタロスに祝福された人間など、天地開闢以来、初めてのことだ。
青銅の門から、やって来た坂道を登っていく。来た時と変わらず、現世への出口から光が漏れていた。
「さあ、ロキさんらが先に行ってな」
トミーは二人を、いや、三人家族を先に行かせた。
ようやく陰気な地下から出れる。とにかく大変で、とんでもなく疲れていた。こういう冒険のめぐり合わせは若い時に来てほしかったと思う。
『許さぬ』
女の声が耳朶ではなく頭に響いた。
頭の中へ直接語り掛けるそれは、テューポーンがやっていたのと同じものだ。なのに、その声に稚気は無い。うすら寒さすら感じさせる、女の悪い声。
「えっ、うわっ」
声と同時に、何かに足をとられてトミーはすっ転ぶ。
起き上がろうとすれば、下半身が動かない。いつの間にか、トミーの腰にまたがる女がいる。
顔の半分が腐ってウジ虫の湧いた恐ろしいお姿。
祟り神としての伊邪那美様であった。
『許さぬ、神の子を生きて産むなど、許さぬ』
伊邪那美様のお顔。そのもう半分は形を止めている。腐っていない半分はお美しいというのに、そこに込められた情念は醜いものだ。死体の恐ろしさや醜さとは違う、内面から発露する狂おしい感情の醜さである。
トミーは驚いた。驚きすぎてしまったものか、伊邪那美様のお顔を見つめて声が出せない。見つめ合って暫時。
『お前も、この醜い顔が怖いか』
「……好きな顔やで。キレイやのにそんな苦しそうな顔あかんて」
これはトミーの本心だ。腐乱した部分はグロテスクで気持ち悪い。しかし、形を止めた半分の神々しさと女の美しさが入り混じるお顔に目を奪われている。血の涙ですら、どこか女らしい情念に色気を感じる。
『え?』
伊邪那美様は予想外の言葉に戸惑った。
祟り神が戸惑うなど、本来はあってはならぬこと。その成り立ち故、冥界から逃げんとする男の心を読み取る権能を持つ伊邪那美様は、大いに混乱していた。
はっ、とトミーは今が大ピンチだと思い出す。そして、もう一つ思い出した。
両手は自由に動かせる。ベルトにくくりつけて吊るしていたビニル袋を探って、ペルセポネからもらった柘榴を取り出す。そして、伊邪那美様の目の前に差し出した。
「ええっと、これどうやって使うんやろか。あっ、そうや、これめちゃくちゃ美味しいらしいから、とりあえず食べて落ち着こう。な、そうしよ。それがええって」
伊邪那美様は柘榴に手を伸ばした。
腐り果てた手の平の上、柘榴はひとりでに割れてその実をこぼれさせた。伊邪那美様はうじ虫を落としながら果実にかぶりつく。
『ああ、なぜ、どうしてあなた様は約束を破られたのか。どうして火に焼かれねばならぬのか』
柘榴は仏教の世界では吉祥果とも呼ばれ、魔除けにもされている。そして、安産のお守りでもあった。さらに、鬼子母神の説話にあるように、子供を喰らう女鬼の心を鎮める果実でもある。
「あんたが悪い訳やないやろ」
さめざめと涙を流す伊邪那美様に、神秘の柘榴を食したことで奇跡が起きる。
腐乱していたお顔の半分が、時間を巻き戻すように修復されていた。未だ、死人の肌色ではあるものの、そのお顔は元の形を取り戻していた。
『うう、うわああああああ』
嗚咽する伊邪那美様から怒りが抜け落ちる。泣き声は鳴りやまず、やがてそのお姿を薄れさせてそのまま消えてしまった。
あまりのことに固まっていたトミーだが、外から自分を呼ぶ声に我に返る。
「あかん、はよせな」
慌てて身体を起こしたトミーは、後ろ髪を引かれる想いを残しながらも大急ぎで閉じつつある出口に飛び込むのだった。




