二
髪を結び、首元の紐を縛り、シエラはグローブをはめた。意識は明瞭。気持ちは準備万端。体も良好。
岬の先に、グレイが立っている。彼の手にはリディアのロッドが握られている。シエラは大きく開け放たれた扉から外に出た。芝生を踏みしめ、輝かしい海と空の青に目を細める。
「おいで、シエラ。道を開こう」
グレイはロッドを持っていない右手を差し出した。シエラは左手を乗せ、海を臨む。
「――玉は満ちた。天よ、我を視よ」
ロッドの玉の部分が七色に光り、海に向かって真っすぐに伸びていった。ロッドの光が途切れ、水平線の向こうに消えていく。
「……ッ!」
ついで、地面が大きく揺れた。まるで何かが開いたかのようだった。しばらく揺れが続いたのち、沖の方に暗雲が現れた。そしてそれは渦を巻き、雷鳴をとどろかす。渦が晴れながら、中から雷とともに、何かが現れた。
「……きたか、"番人"」
それは、明らかに"人"の姿を模していた。体に稲妻をまとったそれは、沖にいるというのにあまりにも巨大だった。顔はなく、のっぺらぼうにも見えるそれは、雄々しい四肢をもち、暗雲を従えている。
「あれは、なに?」
「番人だよ。封印の地に行くべき人間かどうかを確かめる、最後の砦だ。あれを倒せば、道が開かれる」
「魔物なの、人なの」
人の姿を模しながら、人非ざる存在。おぞましいほどの力を感じさせるあれは、生物なのだろうか。シエラが一歩後ずさりたくなると、グレイがぎゅっと手を握り返した。
「神の、成れの果てだよ」
グレイは薄く笑う。
「――さて、と」
グレイはシエラの手を放す。彼の瞳は、巨神を捉えている。
――あれと、戦うというの。
シエラはぞっとした。あのような巨大な、神。人間ごときでどう戦えば良いのか。目の前の男は思念体といえど、どうやってあれに勝つというのだろう。
シエラの感じた恐怖は、生存本能が鳴らす警鐘だ。立ち向かってはいけない、あれに戦いを挑んではいけない。生きていたければ、ここに留まれ。そう言われているかのようで、シエラの額を冷や汗が流れる。
グレイはぐっと足を踏ん張り、体を上空に打ち上げようとし――突然右手を薙いだ。
風が斬られ、数十メートル先の木々が切り倒された。
「え……?」
「誰だ、出てこい」
グレイは切り倒した木々を睨みつける。シエラも視線を動かす。
「随分乱暴な挨拶をしてくるんだね」
ゆらり、と空気が揺れる。蜃気楼。長く淡い水色の髪が現れる。緋色のマントがなびき、少女の笑みが垣間見える。
「――こんにちは、シエラ、そしてはじめまして、グレイ=ジェルドさん」
幻惑的な笑みを浮かべ、ツヴァイが立っていた。そしてその横にはランティアがいた。その横には、白髪と白ひげを蓄えた、シエラの見知らぬ男性がいる。
「そのマント……その紋章……アークか」
グレイが忌々しげにつぶやく。
「あら、存じ上げて頂けていたのね! 嬉しい!」
「しらじらしい挨拶はいいよ。で、こんな忙しいときに一体何の用なのかな」
あくまでお前たちの相手をする気はない、と言外に伝えるようにグレイは悪態をつく。すると、ランティアの隣にいた男性が一歩前に出た。
「これは失礼。私はアークが旗頭、アハトというものだ。君に一つ、提案があってここに来た」
「提案……?」
「そうだ。君がいま呼び起こしたあの"番人"、あれを、我々に譲ってほしいのだよ」
アハト翁の提案に、グレイは眉間に皺を寄せた。
「あれを、譲る? 君、それを本気で言っているのかい」
「本気だとも。我々は神の力が欲しいのだ。たとえ成れの果てであったとしてもね。そして、君の利害と一致するのではないだろうか。君はどうせアレを倒さねば、目的に到達できない。ならば、その障害を取り除こうという提案は、願ったり叶ったりではないかな」
雄弁に語る彼の声は、低く、耳障りがいい。けれど、本当にそんなことが可能なのだろうか。あんな怪物を、ただの人間が御しきれるとは到底思えない。
「君たちに、あいつがどうにか出来るとは思えないけどね。……それに、利害の一致だと? 笑わせるな。君たちの目的は、神の信奉と魔物の殲滅だろう。それは俺とは対極に位置するものだよ」
「おぉ、我々のことをよく御存知だ。そうですとも、我々の最終目標は、魔物の殲滅です。しかし、目的が対極であっても、その過程の利害は一致しているのでは?」
「目的への障害物を、目の前の利益のためだけに野放しにできるほど、俺は寛容ではないんだよ」
アハトとグレイの間に、剣呑な雰囲気が流れる。
「……そうか、残念だ。では、勝手に頂くとしようか」
「ただの人間風情が、俺を止められると思うなよ」
グレイが右手を翳した。上空に無数の矢が出現する。それらは雨のようにアークの三人を襲う。
「あらら、結局こうなるのね」
ツヴァイが動く。グレイの矢と同じだけの矢が出現し、お互いを打ち消し合う。
「ただの人間風情だなんて、さみしいことを言わないでよ~」
ツヴァイが笑いながら歩き出す。ゆらりゆらりと、黒い影が彼女の足元で蠢いている。まるで人の顔の影のようなソレは、不気味な笑みを浮かべているように見えた。
「"同じもの"を分け合った者同士なんだから」
その言葉とともに、ツヴァイが飛び出した。地面がえぐれ、グレイの周りを炎が包み込む。グレイが腕をふるえば炎が水に変わり、えぐれた地面がツヴァイに向かって飛礫となって襲い掛かる。
「同じものを分け合った……」
グレイは右のてのひらを広げ、ツヴァイの体を一直線にとらえた。ツヴァイの体は飛礫をひらりひらりとかわしながら、グレイに向けて氷柱を発射させる。
「そうか、そういうことか。そういうことか……!!」
グレイは上空に飛び上がった。飛礫をかわしたツヴァイも上空に飛び上がる。
「君は、"ヤマトの種"を持っているんだね……!!」
「えぇ、そうよ。だからあなたの"ドレイン"は私には利かないの。そして、私はあなたよりも強いのよ!」
「種ごときが随分な口を叩くじゃないか」
グレイの手から光が伸びる。鞭のようなそれがツヴァイを襲う。ツヴァイは宙で蝶のように舞いながらひらひらとそれをかわしていく。そして足に雷のようなものを収束させていく。
そしてグレイに一直線に向かうように飛び上がり――彼を飛び越えた。
シエラもあっけにとられる中、一瞬の隙を突いたツヴァイは、まるで韋駄天。ぐんぐんとグレイを置いて「番人」に向かっていく。
「ちっ」
グレイは鞭を伸ばすが、届かない。
「単純な挑発にのるなんて、おばかさんね」
ツヴァイは真っ直ぐに「番人」に走る。シエラはどんどん小さくなり、見えなくなっていくツヴァイの姿を茫然と見送る。
「お前は、見送るだけでいいのか」
不意に、ランティアから声をかけられた。久々の再会だというのに、相変わらず考えがわからない。感慨もなにもあったものではない。けれど、依然とその顔つきは少し異なっている。
「先輩こそ、どうしてここにいるんですか」
シエラにとってランティアは意外過ぎる人物だった。よもやこの旅に彼が関わるとは露も思わなかった。そして、それがアークだとは。
「……さて、なんでだろうな」
ランティアは、平坦な声だった。以前のような、険のあるような、嫌味をこめたような声ではなかった。ある種の諦観によるものなのか、はたまた別の何かなのか。
「先輩は……」
シエラは、それ以上言葉が出てこなかった。たくさん聞きたいことがある。なぜ。どうして。何がしたくて。けれどそんな質問を重ねても、今の自分に何ができるのだろう、と余計な考えが浮かぶ。
愚直に生きれればどれだけ良いのだろう。自分は愚直さをもってここまで生きてきたような気もする。その一方で、自分の心はどこまでも卑屈さを滲ませてしまう。私なんて、私だって。
そんなシエラのかわりに、ランティアが言葉を紡いだ。
「俺は、お前が適合者になったことだって、最初はどうでもよかった。いや、それは少し違うが……。俺は、見届けるつもりだった。世界が一体どうなのか、その一端に関わったものとして、自分ごととして捉えようと思った」
けれど。
「適合者はお前だった。どんな優秀な人間が世界を救うのかと思っていた。自分より優秀な人間が、華々しい英雄譚を往くものだと思っていた。いや、そう期待したかった。だってそうだろう。世界の命運がかかってるんだ。おとぎ話のようなことにせよ、俺たちは実際に宝玉に触れたんだ。少しは、自分にだってなにか価値があるんじゃないかと思いたいじゃないか」
華々しい英雄譚。あぁ、そうだ。シエラだってそう思っていた。自分ではない誰かが、遠いどこかできっと世界を救う。そう思っていた。
「でも、宝玉が選んだのはお前だった。魔力しか取柄のないお前だった。お前は取柄が魔力しかないことが、コンプレックスだった。そんなちっぽけなお前が、世界に選ばれた。価値を見出された。世界に何の価値も見出してなかったお前が、価値を見出した」
ランティアは真っ直ぐにシエラを見た。
「お前がそんな顔をしている様なんか、俺は見たくなどなかった」
わずかな苛立ちを含めたその瞳には、深い憐憫の色がにじんでいた。シエラの良く知っている色に似た、不思議な機微の色だった。
「……そう、ですね。先輩に哀れだと思われていた私からは、少し変わったと思います。相変わらずの部分もありますけど、それでも、私は私なりの道を歩いていくことにしましたから」
シエラは、遠くに見える「番人」を見た。その頭上高くに、黒い魔力の塊が出来ている。
「ツヴァイは、あの子は、すごいんです」
渦巻く黒雲は、練り上げられた魔力の量もさることながら、その練り上げられていく速度も、その遠距離からみていて分かるほどだ。
「昔から、ずっと、あの子は、すごい……。私はそれがどこか妬ましくて、でも普通の友達でいたくて、でもどこか見下していたのかもしれない」
シエラはランティアの目を真っ直ぐに見た。
「きっとツヴァイも、私が妬ましかったし、それでいて見下していた。私達は、似た者同士なんです。でも、あの子は私にない真っ直ぐさもあるんです」
分かりますか、先輩。
「あの子は、きっと誰かのためにあれをやっている。誰かへの真っ直ぐな心で、自分を動かしている。そしてそれが、自分のためだと本当に思っている」
シエラの知らないツヴァイの在り処を、目の前の、そしてアークの首魁たる老人に突きつけたかった。
「番人」の頭上の黒い塊が、真っ直ぐ落ちようとしている。
「――先輩、見送るだけ、と言いましたね」
シエラは、自分のてのひらを見た。
「……私はきっと、あの子を見送ることさえできない」
そして。
世界は衝撃と轟音に包まれた。




