三
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月の光に照らされた海の水面の怪しさを眺めながら、シエラは一人海鳴りを聞いていた。今までの人生の中で海を見たことはほとんど無い。荒々しさを予感させる音が今は耳に心地よかった。
一本凛と立つ木の幹にもたれながら、遠くに感じる虫の声さえも愛しいような気がした。
「私のルーツは、リディアであり、ナルダンであり、フィンディア……」
昼間グレイから明かされた秘密を一人ごつ。
受け入れるには重く、飲み込みまでには時間がいる。自分自身がここにいる理由は、確かにグレイの言葉で知ることが出来た。けどそれは、命の問題だ。脈々と受け継ぐ血の問題であって、シエラ個人の問題ではない。シエラ個人の問題は、その魂の在り方だ。心がなにに向かうか、ただそれだけの問題のように思えた。
リディアの偉業も、ナルダンの活躍も、フィンディアの存在も、それは彼らの問題だ。シエラの問題はその先にしかない。
――私は、どうしたいんだろう。私自身は、どうしたいんだろう。
シエラは己の両の掌を見た。タコができ、以前よりたくましくなった。けれど、この手で掴めるものは多くない。守れるものも決まっている。全てなど手に出来ない。欲張れば順位がつく。その順位さえ決めかねる。それでも、自分で決めなければいけない。こればかりは他人任せになど出来ない。
――……ダメだ、まだ決められない。もう少し時間が欲しい。
ここにずっといるわけにはいかない。グレイの意図も読めないが、仲間たちがどうなったのか心配だ。そしてどうやって合流するか。考えることは山積みだ。リディアのロッドに呑み込まれた宝玉をどうするか、そのロッドをどうやってグレイから取り返すか。
シエラがそんなことを考えていると、ふいに後ろから人の気配がした。
「シエラ」
「……グレイ」
相も変わらず、白いシャツに身を包んでいるグレイだったが、顔色が悪そうだった。魔力に鈍いシエラでも、彼の身に纏う魔力がどこかおかしいことに気付く。
「グレイ?」
無言で近づいてくるグレイに、シエラは妙な不安を抱いた。前髪からのぞく瞳には、かすかな生気しかない。
「……君と、なんでもない話がしたいな」
「え?」
ぐい、と腕を引かれ、シエラはそのままグレイの寝室に連れて行かれる。要領を掴めないが、どうやら話し相手が欲しいらしい。
――なんか、敵だのなんだのピリピリするだけ損なのかな……。
そんな呑気な事を思っていたが、部屋に入るなりグレイは寝台に寝そべってしまった。シエラは眉を寄せながら、椅子もないため仕方なしにベッドの縁に腰かけた。
グレイはシエラの背中のそばに丸まって、彼女の右手をなぞり始めた。
「今日はなんだか、不思議な一日だな」
ぽつりと独り言を漏らしながら、グレイはふいにシエラの右手をなぞる指を止めた。シエラはその手を払いのけようとしたが、その前にグレイの腕が消えた。そしてシエラのサイドテールの髪留めを外してしまった。
「ちょ……!」
シエラが取り返すよりも早く、グレイは反対側の床に髪留めを投げ捨ててしまう。そして先ほどと同じように、シエラの右手に触れる。
「五百年前、俺が目覚めたとき、とても寂しかったんだ」
突然の吐露に、シエラは反応できなかった。グレイはそんなシエラの様子などお構いなしに、滔々(とうとう)と語り出した。
「俺が目を覚ましたのは、禁断の森のすぐそばの森だった。誰も近づかない場所だって分かってたから。でも、実際に目を覚ますと、もう何もかもが違ったんだ。俺には、つい昨日のことのように感じるのに、街に出たら、俺は取り残されていたんだ」
グレイはシエラの手の甲を撫でる。
「生まれたての赤子みたいに、右も左も分からなくて。目的はあるのに、どうやって目的に辿りついたらいいのか考えていた。そして、最初の百年は世界を見て回った。俺の故郷があっただろう場所にも行った。全部全部、変わってしまっていた。残っていたものも、風化が止まらなかった」
シエラの手を撫でていた指先が、手のひらに変わって、シエラの手を包むこむ。シエラは体から力が抜けるのを感じた。
「俺だけが取り残されていて……」
グレイの抑揚のない声が耳朶に響く。今彼は、どんな思いで語っているのだろう。それはどんな孤独感だったのだろう。
「こんな気持ち、知らなかったんだ。俺だけ変わらずにそこにいるのに、俺は不変なのに、俺は置いていかれるんだ」
じんわりと手から伝わってくる温もりは、確かに彼がここにいる証なのに。
「こんな孤独、俺一人が味わえばよかったのに」
泣いているような声だった。それでも、シエラはグレイの顔を見ることは出来なかった。
「――でも、あなたは……」
あなたのために孤独を耐えたレイルを、殺したんでしょう。
言いたかった。それでも、実際に言うことは出来なかった。何か知れない力か、あるいはシエラの中にいる"レイル"のせいか、シエラは言葉を呑み込んだ。
それでもグレイは分かったのか、自嘲的な笑みを浮かべた。
「どうしてだろうね。俺は、レイルに会わなければ良かったのかな。彼女が苦しむ必要なんて、きっと……」
なかったのに。
夜の闇にかき消えてしまうような弱弱しさで、グレイは呟いた。
シエラはグレイの手を握り返す。
「……きっと、リディアもあなたと同じ気持ちだったんじゃないかな」
「――え?」
それまでシエラの方を見ていなかったグレイが、彼女を見上げた。そしてシエラも、グレイのその揺れる瞳を見た。
「あなたがレイルに苦しんで欲しくなかったように、リディアも、あなたにそんな苦しみ、背負ってほしくなかったんじゃないかな」
シエラの指摘に、グレイは、一瞬迷ったような顔をする。
「……これは、俺の意志だ。苦しむと分かって尚、俺は、選ばずにはいられなかったんだよ」
ぎゅっと、シエラの手を握る力が強くなる。
「たぶん、それを含めてレイルも同じ考えだったんじゃないかな」
グレイから反応はない。シエラはゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたも自分の意志で選んだ。そしてそれを承知で、レイルも自分で選んだ。きっと、リディアも」
「……違う。リディアは、選べなかったんだ」
あぁ、と。シエラは何か噛みあわないパズルのピースを見つけたような気がした。
「――あなた達は、似た者同士だったんだね」
お互いが大切で、傷ついてほしくなくて、助けたくて。
それなのにこんなにもすれ違ってしまって、解すにはあまりにも縺れすぎて。
――そして、きっと私にも……。
その時、シエラは自分の奥にある何かが音を立てて変わり始めたのを感じた。
「ねぇシエラ。君は、俺が許せない……?」
窺うような、許しを待つ子どものような問いかけに、シエラは返事に困ってしまう。けれど、何か掴みかけていた。
「そうだね。許せないけど、それはきっと、怒りではないよ」
「怒りではない?」
「うん。うまく言えないけど、私の中に、燃えるような怒りとか憎しみは、なんでかないんだよ」
「ふーん……」
つまらなさそうにグレイは相槌を打つ。けれどシエラは、そんな彼の態度が鼻につくことはなかった。
「でも、勘違いしないでほしいの。怒りがないことと、あなたの罪を裁かないことは同じじゃないから」
アンの態度から察するに、グレイがしてきたことには、シエラが与り知らぬ悪行も含まれているのだろう。そしてそれは裁かれなければいけない。レイルがグレイにもたらしたい"救い"も、シエラには分かっているつもりだ。けれど、その救いのために贖いを無くすことは、誰のためにもならない。
シエラがちらりとグレイの顔を窺うと、彼はどこか安心したような顔をしていた。
その穏やかな顔があまりにも不可解で、シエラはなんだか泣いてしまいたくなる。
「ねぇ、グレイ……あなた、本当は……」
その先の言葉は、もう紡げなかった。穏やかな顔のまま、ゆっくりとグレイが頭を横に振った。そして彼は瞼を閉じて、静かな寝息を立てる。
シエラは、その寝顔を見ながら、まるで自分を見ているような気持ちになった。
彼は、シエラのもう一つの側面なのかもしれない。
そして彼は、シエラに幻影を見ていた。
愛する人の幻影であり、自分の幻影を。
――きっと、あなたは知っているんだね。自分が雁字搦めなことを。止まりたいのに止まれないことを。許されたいのに罰がないことを。罰するには、あまりにもあなたが生き過ぎたことを。
自己撞着を知りながら、大きく膨れ過ぎた自分を制御できずにいる。
――私と同じだ。私もあなたも、他人に救いを求めている。
けれどその結末は、たどり着いた結論は同じではなかった。
――ありがとう、クラウド。私はあなたのおかげで、踏み留まれたんだよ。
クラウドだけではない、適合者の仲間の顔がシエラの心を温める。
――答えが二つしかないなんて、そんなの間違っている。私は、私で答えを選びたい。
そう、これはシエラの魂の、心の問題だ。そして、ようやくシエラはスタートラインに立てた。
隣で眠る悪魔が、まるで導きの光のように。
そして月の光に照らされた海の、その荒々しき波の音が、ゆっくりとシエラを包み込んだ。
久々の更新ですみません。
さて、シエラの気持ちが段々と固まってきたようです。




