一
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耳元で、誰かの苦しむ声を聴いた気がした。
助けてほしいと、喉元を掻き毟りながら血反吐を零す――どうしようもない男がいた気がした。けれど、シエラにはそのどうしようもなさが、どうしようもなく分かってしまった。
心はいつだって素直だ。けれどそれを表に出すには、いくつもの壁を越えなければならない。声を出したくても、喉の奥が張り付くことがある。そんなどうしようもなさを、シエラは知っている。
けれどシエラは、どこかで気付いてもいたのだ。
この男の零す血反吐は紛れもない真実だが、最早助かること能わず。救いようのない汚濁と矛盾に染められたその血は、男の体を蝕み続けるだろう。
――それでも、それでもなお、グレイを救いたいと思うんだね……レイル。
シエラは自分の心に問いかけた。
――私は、どうしたいんだろう……私自身は、どうしたらいいんだろう。
飲み込まれそうな深い闇がシエラの心に忍び寄る。
――どうしようもない気持ちも、雁字搦めの気持ちも、そのどちらも私は分かってしまう。そしてグレイという男の弱さも、醜さも、狡猾さも、許せないと思う。
レイルはシエラに、思うままにあれと言った。ならばシエラは自分がどう思っているのかを定めなければならない。シエラの願い、レイルの願い。
シエラは瞼に感じる熱いものに、目を覚ました。
真っ白な天井に、真っ白なカーテンの隙間から光が差し込んでいる。シーツも、自分が身にまとっているワンピースも、何もかもが真っ白だった。
シエラは自分の両の掌を見つめる。魔力も体力も回復している。視界、思考ともに良好。シエラはゆっくりと上体を起こした。
「ここは……」
辺りを見回す。ベッドは天蓋付きで、三メートル近くある窓の外は、緑豊かな庭だった。部屋には他には何もなく、扉があるのみだった。シエラは庭に出るか奥の部屋に行くか悩みつつ、庭の方に足を向けた。
「綺麗……」
思わず呟いていた。庭からは海が一望できた。どうやらここは岬に建てられた家らしい。海に面した先端には、大きな木が一本そびえている。そしてその下には木製のテーブルと椅子が置かれていた。シエラは振り返り、家の外観を確認した。木造の平屋で、かなり広い。家に続く道は坂になっており、近くに民家らしきものはない。山と空の澄み渡ったコントラストが眩しいぐらいだ。
潮風がシエラの髪をさらい、不安だった気持ちを落ち着けてくれる。
「やぁシエラ、目が覚めたんだね」
しかし、後ろから聞こえた声に心臓が跳ねた。ゆっくりと振り返り、家の窓際を見やった。
そこには、真っ白なシャツに身を包み穏やかに微笑んだグレイが立っていた。普段現れるときには濃紺か灰色の外套を羽織っていたため、大分イメージが違う。
「よく眠れた?」
笑う姿は好青年そのもののようで、シエラはたじろぐ。
「そんなに警戒しないでいいよ。……って言っても難しいか。とりあえずご飯でも食べようか」
グレイはシエラを手招きして、シエラが出て来たのとは別の部屋に引っ込んでしまった。シエラは仕方なしにグレイの後を追う。ダイニングには庭に置いてあったものを同じような木製のテーブルと椅子が並べてあった。
奥にはキッチンが備え付けてあり、そこでグレイがコーヒーを淹れている。テーブルにはすでにサンドウィッチが並べられていた。
「座ってて」
言われるがままにシエラは椅子に腰かけた。このダイニングは先ほどの寝室とは違い、壁は白ではなく、むしろ木の素材をそのまま活かしている。
「はい、どうぞ」
コーヒーを差し出してグレイも椅子に座る。シエラは彼の恰好をじろじろと見ながら思ったことを口にする。
「グレイは白が好きなの?」
すると、グレイは瞳を真ん丸にして瞬きをした。そしてやや間をあけて笑い出した。
シエラはその様子に唖然とした。そんなにおかしな質問をしたつもりはなかったのだが。
「ごめんごめん。最初に聞くのがそれかぁと思うと、つい、和んでしまって」
「な、なによ……悪かったわね、お間抜けな質問で」
「いやいや、結構結構。どうやら俺は、シエラという女の子のことを見くびっていたらしい」
「なにそれ」
シエラは頬を膨らましてコーヒーに口をつけた。グレイは上機嫌らしく、笑みを崩さない。
「じゃあ本題に入るけど、どうして私はこんなところに?」
宝玉は全てシエラのロッドに揃った。そしてそのロッドは今シエラの手元にない。であれば、グレイが持っているのであろう。聖玉に至る道は最早グレイの手中にあるというのに、この男の考えていることが読めない。
シエラが疑いの眼差しを向けていると、グレイは悪戯がばれた子どものように笑った。
「言っただろう? 一度君と、ゆっくり話がしたかったって。本当に、それだけだよ。君と話をして、確かめたいんだ」
「……確かめる?」
「そう、確かめる。君という女の子を。君という人間を」
「なぜ?」
「なぜって……そうだね、君には、きちんと話をしなければいけないね」
そう言うと、「どこから話そうか」とグレイはマグカップの縁をなぞり始めた。
「そうだなぁ――遠い、昔の話をしようか」




