二
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「怖い顔をしているね」
ふいに後ろから聞こえた声に、ジルは勢いよく振り返った。廊下の壁にもたれかかって薄く笑っているグレイに、ジルは遠慮なく舌打ちをする。
「へぇ、日記は無事に回収できたんだ」
「……俺は今気が立ってるんだ」
腹の底に熱が溜まってぐるぐると渦巻いている。ジルはグレイを無視してそのまま廊下を進もうとした。
「君とナルダンの適合者について、知りたい?」
しかし、グレイのその言葉に足を止めずにはいられなかった。
「……てめぇ、何を知っている?」
「知っているも何も、ねぇ……?」
ジルは一足飛びにグレイに斬りかかった。しかし影が揺らめいたと思った瞬間には、グレイは消えていた。
「知りたいんだろう?」
ふーっと後ろから耳に息を吹きかけれ、ジルは右足を蹴り上げた。グレイはそれもひらりとかわすと、「おいで」と手招きをした。
グレイに従って歩いて行くと、庭に出た。薔薇園の中にぽつんと置かれた真っ白なテーブルと椅子にグレイは腰かけ、ジルに座るように促す。自分の屋敷ではないにも関わらず、目の前の男は遠慮なく寛いでいる。ジルは軽く舌を打ち、斜めに椅子に腰かけた。
「まぁお茶でも飲みながら話そうか」
ぽん、と一つ手を叩けば、ティーセットと茶菓子が出て来た。この俺がそんな趣味なわけないだろう、と内心で悪態を吐きながらジルはグレイを睨む。
「君とこうやってゆっくり話すのは久しぶりだね」
「はっ、記憶にねぇな」
「寂しいことを言わないでおくれよ。君もアンもつれないのだから」
引き合いに出された人物の顔を思い浮かべ、ジルは口を閉ざした。グレイは紅茶を飲みながら笑っている。
ジルは目の前の男と最初に出会った日を思い出す。忌まわしい、記憶だ。それを振り払うようにジルはわずかに身を乗り出した。
「それで、俺たちの何を知ってるってんだ?」
目の前の男はいつも全てを知ったような顔をしている。涼しげに他人を見下しながらほくそ笑んでいるのだ。グレイは「ふふ」と楽しげに口許を緩める。
「君は、君のご両親のことを覚えているかい?」
「なんだよ、急に……」
両親という言葉にジルはたじろぐ。ジルの記憶の中に両親の面影はない。戦争のゴタゴタで死んだのだそうだ。そして自分を拾って育ててくれた老婆の姿がおぼろげに思い起こされるのみだ。老婆が亡くなり、あとは必死に毎日を生きた。盗んで、殺して、奪って。そして剣の師匠に拾われ、育てられ、軍隊に入り、目の前の男に出会った。
「覚えてねーよ。俺は孤児だったんだからな」
「じゃあ君の剣の師匠のことは?」
「覚えてるに決まってるじゃねーか」
「師匠の名前、覚えてる?」
「ガイウス」
ジルは記憶の中にある、武骨な男の手と笑ったときの目じりの皺を思い出した。そのとき、ふいにジルは自分がどこに立っているのか分からなくなった。咄嗟に腕で机に倒れ込めたが、意識が明瞭ではない。
記憶の断片が、雪のように舞っている。目の前の景色は薔薇園に違いないが、ジルの脳裏にはちらちらと記憶の断片が舞っていた。降り始めたそれらにジルは苛立ちを覚える。先ほどかき消した、グレイとの最初の記憶がよみがえる。そして降りしきる雪の向こう側に、なにか違うものが見えて来た。
――あれは、なんだ……。
ジルは頭を押さえる。見えてくる景色は、一体なんだ。薄墨のような暗い空間に、自分が立っている光景。足元には人が倒れている。自分はジャマダハルを持っていた。なんだ、いつもの光景かと、心が瞬時に納得した。けれど脳は違和感を訴えている。いつもの光景は、ジルの持ち得るものではなかった。
――どういうことだよ……ッ!!
場面が切り替わる。ジルは自分がどこか円形の筒になったガラスの中に浮かんでいるのが分かった。薄暗い部屋には同じような筒が無数に設置されている。ジルの口には酸素を取り込む器具をつけられ、生ぬるい液体の中に閉じ込められている。手は小さく、剣によるマメは出来ていた。そしてそんな自分を、筒の外から見ている人物がいる。グレイ=ジェルドだった。今自分の目の前にいる男と寸分違わぬ人間が、記憶の中には立っている。
――これは……なんだ。俺の記憶なのか……?
ジルはグレイをねめつけた。体の奥から湧き上がる衝動は、殺意だった。目の前にいる男をここで殺さねばならない。否、殺したい。けれどそう思う自分の思考さえ、今のジルには頼りないものだった。
「どうしたのかな?」
「っざけんなよ……」
わざとらしく首を傾げるグレイに、腹の底が熱くなる。
「ふふ、辛そうだねぇ」
グレイはジルの顎を指先で上向かせ、目を合わせた。
「ねぇ、ジル。俺がどうして君に目をつけたと思う?」
耳障りな声だと思いながら、ジルはグレイから目がそらせない。
「俺はさ、君や、ナルダンの適合者みたいな深緑の髪が大嫌いなんだよね。憎くて憎くてたまらなくなるんだけどさ、君は当時騎士としての名声を得ていたガイウスの弟子だって言うじゃないか。だからね、俺は君を利用することを決めたんだ。それに君は可哀そうなことに親を知らなかった。そして君はこの国の汚濁を知っていた。だから君を選んだんだ」
「要するにてめぇに都合の良いガキだったってことだろ」
ジルの吐き捨てるようなセリフに、グレイはただ口角を上げるだけだった。ジルはグレイの指をようやく払いのけた。優しげな顔をしながら、心の中は呪いで満たされている――グレイ=ジェルドとはそういう男だ。とても寒いね、と相手に笑いかけながら、その相手の首に手をかけるような男だ。優しさはこの男の本質だが、それと同時にどうしようもない悪が巣食っているのだ。
「けれど、俺が君を選んだのは運命だったのかもしれないよ」
「は?」
グレイは立ち上がり、そっとジルの頬を両手で包んだ。凍えるような指先だった。人の血など通っていない、人のカタチをした化け物が目の前にいた。
「――君の師匠のガイウスの名は、ディワーディス。ガイウス=ディワーディス。ナルダンの適合者、クラウド=ディワーディスの、実の祖父にあたる」
「――はっ」
このような欺瞞が許されてなるものか。このような不条理が、このような巨悪が、このような汚濁が、許されてなるものか。
ジルの中に明確な怒りが生まれた。額には青筋が浮かぶ。歯を食いしばる力が増す。目の前にいる男が憎い。自分の意志が、この男に塗り固められていたようだ。そう思うと腹に血が集まる。顔は焼けるように熱く、全身が湧き立つ。
殺したい。壊したい。
衝動が全身を駆け巡った。椅子が大きな音を立てて倒れる。気付いたときには男の上に跨って首筋にナイフを突き立てていた。
「あぁ怖い怖い」
笑顔を張り付けたままの男――グレイ=ジェルドはジルの頬に指先で触れてくる。ジルはその手を払いのけて、グレイの胸倉を掴んだ。
「俺はてめぇのオモチャじゃねーんだよ」
低く呻くようなジルの言葉に、グレイは「そうだね」と微笑む。
「だから運命なんだよ。君が唯一敬愛した師は、君が心の底から殺したいと願う男を生み出した。ガイウスという一人の男は、君にとっての運命だったんだ」
「てめぇにジジイの何が分かるってんだよ!!!!」
憧れだった。強さの象徴だった。いつか越えたいと思っていた。親を知らない自分を、本当の子どものように育ててくれた人だった。本当の子どもだったらどれだけ良かったのかと思ってしまった。けれど、それは叶わない夢だった。
「……けど、納得したぜ。なぜ俺とあいつが対になる技を使えたのか。なぜ――俺があいつを殺したいのか」
自分のこれまでがたとえ欺瞞であったとしても、目の前の男に仕組まれていたとしても、それさえも凌駕するほどの欲求が湧き起こる。
「運命なんて陳腐な言葉で済ませられるもんじゃねぇ。いや、そんなことはこの際どうだっていいんだよ。俺があいつを殺す。それだけだ」
「そうかい。でもそれが君の意志ならばそれでいいよ」
「はっ、そうかよ。……いずれてめぇも殺すけどな」
ジルは笑ったままグレイの上から退いた。ジャマダハルをしまい、背を向けて歩き出す。
「ジル」
呼び止められるが、今度は振り向かない。
「君の怒りを、俺は受け止めよう」
グレイの静かで蠱惑的な声が耳朶に絡みつく。ジルは無言のままその場を去った。足早に、けれどそれが悟られることのないように。屋敷の中に入ると、今まで静かだった鼓動がけたたましく脈打ち始めた。
このまましばらく人に会わずにやり過ごそうと思ったとき、視界に人影が映る。ぬばたまの黒髪をなびかせ、アン=ローゼンが立っていた。なんとか無視して立ち去ろうとしたとき、アン=ローゼンが口を開く。
「グレイを殺すという言葉、本心と受け取って良いか?」
思いもよらなかった言葉に、ジルはアンを見下ろした。表情のないつまらない顔がそこにある――はずだった。
「っ」
けれどそこにいたのは、真っ直ぐな瞳で自分を見上げてくるただの少女だった。口許はかすかに強張り、眉は不安げに寄せられている。表情筋などない、とそう思わせる普段のアン=ローゼンの面影はない。
「それを確かめてどうするってんだよ」
動揺を悟られないように、声を低くして顔をそむける。
「……場所を変えよう」
アンはジルの手を取ると、駆けるように屋敷の奥へと進んでいった。ジルは抵抗する気力さえ無かった。そしてそのまま薄暗い書斎に入り、アンは手を離す。
「セイスタン。お前は、私とエリーザ以外で唯一、グレイと接点がある人間だ」
落ち着かないらしく、珍しくアンは部屋の中をぐるぐると動き回っている。ジルはぼんやりとそれを眺める。
「奴は王の権力を笠に着て、私達を動かしている。私達や王は、奴と利害が一致していると――そう思っていた」
だが違ったのだ。
アンの声はわずかに震えていた。けれど今のジルにはどうでも良いことだった。視界がぼやける。意識がどこか遠いところにあるのを俯瞰している自分がいる。
「セイスタン……?」
訝しげに自分を見上げてくるアンの存在が煩わしい。ジルは何も告げずに部屋を出て行こうと背を向ける。しかし、その瞬間アンの額が光った。扉が開かない。鍵はかかっていない。アンの結界が張り巡らされたのだ。ジルはようやくアンを見る。それはどこまでも暗い瞳だった。
「アールフィルト。俺と利害が一致したと思ってんなら、それは勘違いだ。確かに俺はあの男を殺したい。けど、その根源はてめぇらとは違う。俺は根っこからそういう人間なんだよ」
突き放すようにそう言えば、アンは心底意外そうに瞬きをした。
「根っこから? それは嘘だ」
アンはずんずんと大股でジルに近づき、ジルの心臓のあたりに手を当てる。
「お前の本質は歪められたのだ。長い年月の中で、お前の心は変わってしまった」
「な、にを……」
瞬間、ジルの中でまた雪が舞い始めた。記憶の断片が見え隠れする。欠片の向こう側に隠れた記憶を見ようとすれば、体が自然と逃げ腰になる。
「セイスタン」
「……るせぇ、よ」
ジルはアンの手首を掴む。
「やっぱりてめぇは人間じゃねーよ。少なくとも、心はねぇな。なぁ、お前は俺とあの男の会話を聞いてたんだろ。なら俺の師匠の話も聞いてたんだろ。俺はよ、今てめぇの計略に乗っかるような気分じゃねーんだよ」
自然と零れたのは笑みだった。乱暴にアンの手を放し、アンの喉元にジャマダハルを突きつける。アンは動じることもなく、薄く笑むとジルのジャマダハルの切っ先を指でなぞった。
「あぁ、人間ではない。何をいまさら言っているのだ。私はアールフィルトの化身だぞ」
当然だと言わんばかりのアンの態度に、ジルはどこか毒気を抜かれた。バカだと拍子抜けしながら、彼女を見下すことはできなかった。
――俺らしくもなく、同情してるのか……。
この少女は哀れだ。自身の両親の死の真実を知らず、ずっと手のひらで踊らされてきた。けれどそれはジル自身も同じだったのだ。
目の前の少女は、自分が神の化身であるという矜持のみで生きて来た。否、生かされてきた。感情を奪われ、人形として生きていた。その少女が自らの意志を持ち、自らの意志で行動しようとしている。
――俺もあの男の手のひらで踊らされていただけだ。俺の意志は偽物だった。
ジルはジャマダハルを仕舞う。
「いいぜ……。気が変わった。アールフィルト、あんたの計画に一役買ってやるよ」
自分は何を口走っているのだろうかと笑いそうになる。けれど心が晴れたわけではない。これはけじめだ。自分の中にある欺瞞を晴らすための、決別なのだ。
「その言葉、違えるなよ」
アンは自信に満ちた顔でジルに手の甲を差し出した。
「おいおい、俺に騎士の誓いを求めるのかよ……」
ジルが気怠そうに呟くと、アンは目を真ん丸にした。
「貴様、元騎士なのだろう?」
騎士だったと言われ、ちり、と脳裏の奥がうずく。
騎士だった記憶は僅かしかない。否、そもそも正式な騎士だったことはない。ただ師の教えが騎士道だっただけのことだ。それでもアンは今ジルのことを一人の騎士として扱おうとしている。
ふん、と小さく鼻を鳴らしてジルは跪く。そしてアンの手の甲に口づけた。
「――グレイ=ジェルドを殺す日まで、俺はお前の騎士だ」




