四
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「たっだいま~」
鼻歌まじりに軽やかな足取りで、マントとスカートをなびかせ、たゆたう水色の髪を踊らせ、ツヴァイは白き巨塔の一室に戻ってきた。
「おかえり」
部屋の中には、人のカタチをした"影"が揺らめいておる。ツヴァイは改めてその実態を注視してみるが、やはり輪郭は曖昧で表情は不気味な笑顔が貼りついて見えるだけだ。
「はぁ、疲れた」
ツヴァイはわざとらく大きなため息を吐き、マントを脱ぎ、ベッドの上に腰かける。
「それで、どうだったわけ?」
「残念、何もなかったわ。外れよ」
「……そう」
"影"は力なく相槌を打ったまま黙ってしまう。面白くない、とツヴァイは一人ごちる。もっと目の前の存在が動揺ないし落胆すると思っていただけに味気ない。
「ねぇ、私、大嫌いな幼馴染に会ってまであんたの為に働いたのよ。なにかご褒美を頂戴」
わざとどこぞのご令嬢のように高慢に、甘えたような声で言えば、"影"がわずかに揺れた。
「ほんっと君って良い性格してるよね」
「あら、ご挨拶ね。私をこんな風に見出したのはあんたじゃない」
「おっと、なんのことやら」
楕円形の窓から差し込む、オレンジ色の光に、ツヴァイはふっと目を細める。すぐそばで揺らめく"影"の笑った口許は、恐ろしささえ感じさせる。
悠久の時の中で歪んだそのカオは、今ではもうなっているのか知れたものではない。しかし、焼き付いて離れることはない。
今から十年前、はじめてこの"影"と出会ったときに見た、カオ。地平線が夜と夕の境目に色づき、町も人も淡い夕焼けの中で輪郭を失いながら、ゆっくりと闇のなかに冴えわたる白銀になるその御髪と、深い湖のような双眸。触れてはならないような美しさのなかにある潜む残忍さが、ツヴァイの瞳には今でも見え隠れしている。
ツヴァイが"影"の素顔をしっかりと見たのはその一度だけだったが、おそらく十年経った今でも変わっていないのだろう。
――ほんと、憎たらしい。
この"影"の中に潜むカオが醜ければ、どれほど心救われただろう。醜さの権化だと納得できれば、ツヴァイの心に甘美な葛藤など生まれない。あの美しいカオで、この"影"は世を恨み、貶め、悪行を手引きする。こうなってしまえば神も悪魔も紙一重だ。
「――ねぇ、"ロイド"」
ツヴァイは呼びかけながら、つかめない"影"に手を伸ばす。見えているのに触れることはできない。雲のような、霞のような、得体の知れない一種の曇りが目の前に揺らいでいる。
「あんたは、何を企んでいるの?」
十年前、彼はツヴァイに力を、知識を与えた。彼女の中にある隠さなければならない、あるいは昇華されなければならない深い泥のようなものを掬い上げてしまった。そしてツヴァイという存在をアークという箱舟に誘った。
この"影"は何かを隠していることは、分かっていた。けれど十年前、まだ六歳だったツヴァイには、ただただ美しい天使が自らの運命を決定し、導いてくれるのだと信じて疑わなかった。今ならばこの"影"のもつ本当の意図を汲み取れる。ツヴァイは"影"ににじり寄る。
「企み、ねぇ……」
ふむ、とわざとらく考え込むような素振りをしてみせると、"影"はいつになく真剣な口調になった。
「君は俺がこの世界を回してるみたいに思ってる節があるけれど、それは誤解というやつだね。いや、偏見、思い込み、先入観に近いかもしれない。まぁ俺は君がそう思うのも無理ないと思うわけなんだが、しかし事実とはあまりにもかけ離れてしまっているからね。ここで一つ認識を訂正しておこうか。俺は、あくまで世界の歯車の一つに過ぎないんだよ。俺の企みは、大きな世界というものの一部なんだ。いや、一部、ということすらおこがましいね」
バカ真面目に、大仰に、どこぞの法螺吹きのように、軽やかにその口からは言葉が流れてくる。
「俺はね、ずっとずっと、ただ一つのことを中心に動いているんだ。君がアークに尽くすのと同じように、俺は自らの誓いに殉じているんだ。君にならその気持ちが分かるだろう?」
尋ねられ、ツヴァイはあえて冷淡に顔を背けた。"影"はそんなツヴァイを気にする様子もなく、同じ調子で話し続ける。
「俺はね、双子だったんだよ。もともと一つだったものが二つになったんだ。もとの一つに戻りたいと思うのは、いずれの罪あらんや」
投げかけられた言葉に、ツヴァイは思わず「……罪、ねぇ」と反芻してしまった。独り言のようなそれに、"影"は返事をした。
「そう、罪というものがあるね。俺の罪、君の罪、人の罪、歴史の罪、どれもこれも罪ばかりだ。しかし罪とは何か。罪には罰があり、報いを受けるものならば、その報いは何によって決定されるのか。人は法を定めたが、では法のない世界では罪とは何なのだろうね」
「なぁにそれ、偉そうに。色々言ったわりに中身のないことを言うのね。あんた達みたいな本当の"人でなし"に、法なんて関係ないって分かっているでしょ。あんたは分かった上でそういう事を云うから性質が悪いのよ」
ツヴァイが口を挟めば、待ってましたと言わんばかりに"影"が笑い始める。腹でケタケタと笑いながら、部屋の中をぐるぐると回り出した。
「そう、法の外にある圧倒的暴力の前に、俺は打ちのめされた。世界の創造主たる男でさえ、女神の嫉妬がもたらした災禍を免れることはできなかった。女神に与えられた罰は、巡り巡って俺に流れついた。実に理不尽だ。運命とはこのようなものか。そこで考えた。俺が世界の歯車の一つならば、俺という歯車の動きによっては、俺の周りにある歯車を動かせるのではないかと」
「それがグレイ=ジェルドであり、私だとでも?」
「ご明察!!」
素晴らしい、と、心から賞讃するような口ぶりで"影"はツヴァイに喝采を送る。
「なに、けれど俺という歯車が動かせるものにも限度がある。君も、あいつも、実に似ているよ。俺というものを媒体にしているだけあって、うん、面白いぐらいにねぇ」
「……なるほど、ね。つまりあんたは自分が理不尽な目に遭ったから、それを世界にやり返そうって魂胆なのね」
「そう聞こえた?」
「えぇ、聞こえたわよ。……でも、あんたの目的がそれなら、グレイ=ジェルドが何をしたいのかも少し想像できるわね」
「おっと、ちょっとお喋りが過ぎたかなぁ」
まるで反省していない声で"影"はそううそぶく。そして「あ」と何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、前にグレイの奴が言っていたよ。――ロベルティーナの適合者こそが、世界の体現者だと」
"影"はそれだけ言って、ふいにツヴァイの視界から消えてしまう。
ツヴァイはよろよろとベッドに腰かけた。腹の底から湧いてくる感情が何なのか、自分では理解できなかった。反射でなにかを壊してしまいそうになったが、ぐっと理性で抑える。脳味噌の奥が熱い。ツヴァイは自分を抱きしめベッドの上で膝を抱えて丸くなる。感情の渦に飲み込まれながら、"影"が言い残した「世界の体現者」という言葉が、ツヴァイの中で木霊し続けるのだった。




