二
「う……ん」
神殿の冷たい石の感覚と、朝独特の冷涼な空気にシエラは身震いした。首だけで周囲を見回すと、右隣にクラウド、左隣にラミーナがいた。少し離れたところではバイソンがいびきをかいて寝返りをうっている。
昨晩はレイルの話を聞いたあと、軽食を半ば無理やり腹に詰め込んで眠ってしまった。シエラは毛布から芋虫のように抜け出し、他のメンバーを起こさないようにそっと神殿に外に向かった。
朝もやのかかった森のにおいと、水分をたっぷり含んだ空気がシエラの肺の中に染み渡る。
体は気怠く、休めた心地はあまりしないが、心と頭はどことなくスッキリしていた。昨日に比べれば幾分かマシな状態で外の空気に触れあえている。
空はまだ白んだ青で、雲にはうっすらと橙色がかかっている。赤みがかったようなその雲がゆったりと流れるのを目で辿りながら、ちらちらと脳裏をかすめる映像にシエラは頭を振った。
すると、背後からかすかな物音が聞こえた。シエラはゆっくりと振り返る。
「――随分と、早いではないか」
久々に聞く独特の物言いに、シエラは目を丸くした。
「コトノ……」
「なんじゃなんじゃ、久々に会うたというのにその顔は」
「体はもう大丈夫なの?」
「あぁ。眠り続いておったおかげで、力の大半は回復できた」
「きゅーん!!」
いつの間にかイヴがシエラの足元にすり寄ってきていた。シエラはイヴを抱き上げて、コトノの顔を覗き込んだ。
「む、なんじゃ。数日顔を見なかっただけじゃろう」
コトノは頬を膨れさせ、シエラの額を小突く。シエラは顔を後ろにそらせつつ、小さく「痛い」と恨み言を言う。それに気づいているのかいないのか、コトノは崩れた柱の上に腰を下ろした。
「それにしても、珍しいのではないか? 御主がこんな朝早くに」
からかうような口調で上からニタニタという笑みを向けてくるコトノを無視して、シエラはイヴの毛並を撫でた。並々ならないシエラの様子に、次第にコトノの表情も強張っていく。どこか張りつめた空気が二人の間に流れる。どれくらい経ったろうか、静寂はシエラに問いかけによって破られた。
「ねぇコトノ。コトノは……この森のことを、知っていた?」
水面に波紋をたてるかのように、静かな問いが投げられた。抑揚が抑えられたような声に、シエラは自分でも少しの違和感を覚えつつ、コトノの言葉を待った。
そしてコトノは顔を動かすことなく、ただ空を見上げたまま口を開く。
「……ぼんやりと、記憶の中の"私"がな」
「……以前にも、言ってたね。コトノ自身の記憶じゃない、別の誰かの記憶のこと」
「ふふ、御主にしては珍しく棘のある言い方をするのじゃな」
「はぐらかさないで」
そしてようやく、シエラはコトノを見た。見てしまったことに、わずかに怯んだ。空を背にしてこちらを見下ろしている少女は、笑みをたたえたまま静かに涙を流していた。それは穏やかな湖面のような瞳から、溢れだしたものがただ流れていくようなものだった。
「……少し、私の話をしようか」
コトノにしては珍しい、アクのない素直な笑顔がシエラに向けられる。シエラはイヴを抱きしめたまま小さく頷いた。
「昨日、あの思念体の女から、神がもつ核について話をされたな。あれは……本当のことじゃ。私達は核によって生まれる。しかし、その核はな、いずれ誰かのものになる運命をもっておる」
「それはレイルのような思念体になる人間に渡すということ……?」
「いいや、違う。あれは特例といっても良い。人間で思念体になれる存在など、指で数えられる程度しかおらんだろうよ。……誰かのものとなる、というのは、少し語弊があるか。そうじゃな、核は一つにつき一つの神を産むのではない、ということじゃ」
なんてことのないような口調で言うコトノに、シエラは強く違和感を覚えた。
「つまり私の核は、以前は違う神の核として存在しておったということじゃ。本来核がもつ記憶というのは、アダムの樹に核が戻った時点でリセットされる。しかし、なぜだか、私には私よりも前の持ち主の記憶が残ってしまったのじゃ」
「……想像できないよ」
「うむ。それはそうじゃろうな」
すんなり受け入れるコトノの態度は、いやに自然だった。鳥の羽ばたきが聞こえる。
「核は一度生まれれば、神の活動が終わったとしても、父であり母であるアダムの樹の還ることが出来れば、何度でも再生し、新たな神を作り出す。……たとえそれが、どんな結末になろうともな」
その言葉に、シエラはなんとなくコトノの気持ちが分かったような気がした。そして、どことなく命というものを軽く考える理由も。
「……ねぇコトノ。コトノは、自分の真ん中にあるものが、いつか自分じゃなくて他人になっちゃうことが苦しいの?」
「…………さぁ、な」
俯くようにして喉の奥で笑ったコトノの表情は逆光になっていてシエラからはよく見えない。シエラは一歩にじり寄った。
「でもそれって大切な問題だと思う。難しいことは分からないけど、私だって、私の心が私じゃない何かによって操られているなんて考えたら気持ち悪いって思うもの」
自分が自分じゃなくなってしまう。自分という足場が消えてしまう。そもそも自分とは一体何か。自分たらしめるものとは。自分という言葉の意味が、ぐるぐる回ってどこかに小さく消えていく感覚は、かすかに残っていた細い糸が切れてしまうような頼りなさだ。
「私は……」
わずかに震える声で、しかしコトノはしっかりとした意志を持って言葉を紡ぐ。
「私は、私だ……! けれど、私の運命は、私がこの核をもって"私"になってしまった瞬間に、見えない何かによって決められてしまったのではないかと……そう、思い知らされることがあるのじゃ」
悲痛な言葉に、シエラは息をのんだ。
「それは、核の前の持ち主に、影響されてるんじゃないかってこと? でも、コトノは最高神だし……」
「最高神など、人間との交渉役として据え置かれただけじゃ。いや、それ以上に、最高神という地位こそ、決定された運命そのものではないか……」
「どういうこと?」
「……昨日、あの女は二千年前の最高神だったミコトの核を持っていると言っておったな。じゃが、それは半分にすぎん。つまり、もう半分は別にあるということじゃ」
どこにあるか分かるか。そう静かに問いかけたコトノは立ち上がり、自分の胸元を親指で強く押した。
「ここじゃ、ミコトの核はここにある。他でもない私の、私の核として……!!」
稲光のように突然、それは衝撃としてやってきた。シエラは声も出せなかった。見上げる先にいる彼女の、いまにも壊れてしまいそうなその心に、ただただ目を見開くばかりだ。
「最高神だったミコトの核を持つ私は、生まれ落ちた瞬間から、周囲にそういう目で見られてきたのじゃ。ミコトという神そのものが、そして彼女の核が特別だったがゆえに……!」
「だから、コトノも特別なものにされたんだね」
憤りという感情は、嫌というほど知っている。理不尽な言葉も、不条理な眼差しも、シエラは知っている。
「……コトノは、ずっと苦しかったんだね」
その苦しみはシエラの苦しみでもある。クラウド達に出会うまでに、抜けない棘のように、ずっと心を傷つけてきたものだ。
シエラはゆっくりと今までのことを思い出す。父も母も普通だった。祖母の不思議な工房は好きだったけれど、それを人に教えることはなく、シエラの幼い秘密だった。そう、特にシエラが魔力をこれほどまでに有する理由は、思い当たらないのだ。父と母が普通であった分、シエラへの風当たりは不躾なものだった。
――でも、最初からそうだったわけじゃない。あれは……いつだろう、十年ぐらい前なのかな。少しずつ、そうだ、ツヴァイもその頃から少しずつ変わっていってた……。
特に魔法が得意だったわけでもない。これといって優秀だったわけでもない。人より少しだけ運動は得意だったけれど、本当にそれだけだった。親に勧められて通い始めた魔法学校でも、何も変わることはなかった。
――あの時、私もっと変わる努力をしていたら……違ったのかもしれない。
旅に出て、クラウドと出会い、ウエーバーと出会い、ラミーナと出会い、バイソンと出会い、ユファと出会い、サルバナと出会った。
――きっと私は、この旅で救われたんだ。
悪意というより興味本位、純粋な好奇心のような、むき出しの視線の中から動けずに凝り固まってしまった自分を、泥の中からすくってくれたのだ。
――……そうだ、私が、コトノが、あんなものに足をとられる必要なんてないんだ。あんな奴らに絡めとられる必要なんてないんだ。
何かに強く背中を押されるように、シエラの中に感情が湧き立って来る。
「ねぇコトノ。……ずっと、人の視線にさらされるのは、苦しかったよね」
知っているさ、知っているとも。そしてシエラは大きく息を吸い込んだ。
「……でも、だからなに!? たしかに"あの視線"ってのは纏わりつくみたいで気分最悪だけどさ!! コトノは胸を張りなよ!! たとえ自分じゃない誰かの影響があったとしても、いまこうしてコトノが最高神でいるっていうのはコトノの実力でしょ! 運だろうがなんだろうが実力だよ! あんな、あんな奴らに私が、コトノが折れてやる必要はない!!」
バッカじゃないの!? と、シエラは誰に向けるでもなく胸を張る。コトノは呆気にとられて口を開けている。
「私はさ、ずっと自分の魔力をよく理解してなかった。ずっと要らないものだと思ってた。でもさ、そんな事なかったんだよね。この旅が始まって、こんな私の魔力でもなんとなくでも役に立ててる。それって、私にとってはすごい大きなことなんだよ。コトノはさ、きっと自分ってものに悩んでるんだろうけど、それは作れるものなんじゃないかな」
にっ、とシエラは珍しく歯をみせて笑った。
「自分が譲りたくないものとか、大切にしたいものとか、やりたい事とか……たぶん、そんな事でいいんじゃないかな」
私も偉そうに言えないけど、とシエラはイヴを抱きしめる。らしくないことをしてしまった気恥ずかしさに耳が熱くなる。コトノの方を見ることが出来なかったが、ふいに上から笑い声が漏れて来た。
「ふっ……ふふっ、あははは!! シエラ、本当に御主らしくない物言いじゃな!!」
「その自覚ぐらいあるわ!! ったく。……でも、最近思うんだ。特にクラウドのこと見てるとさ。自分の運命丸ごと呑み込んだうえで真っ直ぐ立ってられたら、どんなに良いだろうって。大変な旅だけどさ、みんながいれば真っ直ぐ立っていられないわけはないんだって。だからさ、コトノも大丈夫だよ」
「根拠のよく分からん発想じゃな」
「そうだね。でも、きっとそんなもんなんだろうね。深く考えてみたって、意外に単純なとこに心の楽な場所ってのはあるんだよ」
「……不思議なもんじゃな」
ふっ、とコトノの肩から力が抜ける。先ほどまで二人の間を流れていた重苦しく張りつめた空気は、いつの間にか消え去っていた。
「のぉ、シエラ。……先ほどのは私個人の悩みとして、核がミコトのものである事実は覆らぬ。つまり、あのレイルやグレイといった思念体が"きょうだい"であるのと同様に、私もまた"きょうだい"、いやあるいは同じ存在なのだ」
「なんかそれ、変な感じがするんだけどなぁ」
シエラは首を傾げる。
「ミコトとその弟神が同じ核ってことは、レイルとグレイも同じ核で、んでコトノも同じ核。でもみんなバラバラの存在でしょ? 同じというよりは、たしかにきょうだいって感じもあるんだけど、なーんかなぁ……」
「そうじゃな。私達のように、同じ核を持つ別々の存在を、同位体といったりもするようじゃが」
「ふーん。あ、そういえば、その弟神の名前ってなんていうの?」
「……ん? あぁ、ミコトの弟か。名前は、ヤマト。しかし私は詳しいことは知らぬからな、これ以上は聞いても無駄じゃ」
コトノはひらひらと手のひらを振り、大きく伸びをした。そして座っていた柱の上から降りると、シエラの額を小突いた。
「いたっ」
思わずシエラは額を両手で押さえる。小突かれた所が妙にくすぐったい。
「まさかお前に励まされる日がくるとはの~」
「む、なによそれ~」
「きゅーん?」
あははは、と笑って神殿の中に入っていくコトノの背中に、シエラはふくれっ面をしながらも、なんだか胸がこそばゆくなる。そしてコトノに声をかけようとするが、タイミング悪く腹の虫が鳴き始めた。
「くっそ……。まぁごはん食べて、リディアの日記解読もしないとだよね……」
「きゅーん!」
シエラは項垂れながら、コトノの背を追うように神殿の中に入った。




