四
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今にも雨が降り出しそうな曇り空の下、彼女は崩れた柱にもたれかかっていた。
森は穏やかだ。青々と茂った葉はいつもと変わらず、動物たちは遺跡には近づかない。鳥のさえずり、風の波の音だけが聞こえる。
ふいに、風の生々しさに肌が泡立った。薄い絹の衣に包まれるようなかすかな温もりに、ずっと忘れていたような思い出があるようで。
けれど彼女には、辿れる記憶が僅かしか残っていなかった。
長い時間を過ごす中で、忘れてしまった。削ぎ落とされてしまった。それでも大切なものは握っていた。離さないように、ずっと持っていた。
風は、運ぶものだ。彼女の鼻を掠めた匂いは、幻かもしれない。白い花弁が目の前に舞う。花弁の残像の隙間は、もうすぐ夜がやってくると告げていた。
地面を踏みしめる音と、ぬばたまの黒髪に、彼女は目を瞠った。
「――久しぶりだね、レイル」
その声は彼女の脳味噌を殴った。目の奥が熱くなる。この涙は喜怒哀楽全てだ。
「――えぇ、本当に、久しぶりね……グレイ」
世界が変わる。雲の隙間から光が差した。
「二千年、だね。……もうそんなに、経っていたんだね」
彼は彼女と会話できるギリギリの距離を保って立ち止まる。
「外の世界は、変わってしまったけれど、ここは変わらないわ」
「……そうみたいだね。ここは、ずっと悲しいままだ」
悲しい、と彼は小さく繰り返した。
「……ねぇレイル、どうして、どうして君は驚かないの」
「……一体何に、驚けばいいの?」
そう問うと、彼は長い沈黙の後、唇を震わせた。
「俺が、ここにいることに」
絞り出された言葉に、彼女は微笑んだ。
「知っていたもの。あなたが思念体になっていたこと。……あなたが、世界を恨んでいること」
静かな言葉は、ゆっくりと彼の胸に伝わり、彼は顔を引きつらせた。
「二千年前、私達の自由は奪われた。そして一つの結末を迎えた。あまりにも理不尽で、あまりにも救いのない結末だった」
「……あぁ、そうだ。理不尽に一つの結末を与えられた。抗うこともできず、選ぶこともできず、俺はただ失った」
憤怒、悲哀、無力感。あの時の感情はまとまりのない一つの衝動だ。大きな塊だ。
彼女はちらつく白い花弁に目を細めた。
「……でもね、グレイ。私達はあの時選べなかったけど、リディアは違うわ」
「違わないさ。彼女は選びたくて選んだんじゃない。選ぶしかなかったんだ。彼女こそ世界の奴隷だった」
「違うわ。そんなことない。リディアは自らの意志で選んだの。選べる中から、自分が信じるものをたった一つ、しっかり握ったわ」
「それは偽善だ。君も所詮その他大勢の無知なる一人だっただけだ……!!」
拳が震えていた。彼は彼女の瞳にたゆたう穏やかさに苛立つ。目の前の無知蒙昧なる幼馴染に教えてやらねばならない、そう思った。
「あの異形たちが俺たちの村にやってきた日を君は覚えているかい? あの日からリディアは選べなくなってしまったんだよ。あいつらが来なければ、彼女があんな結末を迎えることもなかった」
「……随分と、全てを知った風に言うのね」
「……なんだって?」
彼は彼女の物言いに眉をひそめる。記憶の中の彼女は、そのような事を言える性格ではなかった。いつも背中に隠れている存在だったはずの彼女が、いままさに彼に歯向かっている。
「確かにあなたは私よりも多くを知っていると思うわ。でもあなたの見ているものが全てではない。それにグレイ、あなたは色眼鏡で世界を見ているわ」
「いいや。俺はありのままを言っているだけだ」
「事実はそうかもしれないけど、あなたはリディアの本当の願いを分かっていないわ」
本当の願い、という言葉に彼は肩を揺らした。
「リディアは、大勢の人の幸せを願っていたわけではないのよ。……私や、あなたや、身近にいる人の幸せを願ったのよ」
「…………どうして、そう言えるんだい?」
「彼女、言ってたもの。……あなたは村を出てしまったから、知らないのよ。彼女が、最後に旅立つ前に言った言葉を」
「……もし、彼女が俺の幸せを願っていたというなら、それはおかしいよ」
彼は感情のこもっていない平坦な声音でそう言った。
「俺のことを思っていたなら、どうしてナルダンを選んだ? どうして、どうして扉の中に消えてしまったんだい……」
彼女は何も言うことができなかった。ただただ胸が苦しくなる。
「ねぇグレイ。まだ間に合うわ。今なら、まだ踏み止まっていられる。リディアが残そうとしたものを、まだ……」
「踏み止まる? 踏み止まってどうするんだい? 俺は壊したいんだ。いや、正したいんだ。リディアが残そうとしたものを踏みにじって出来た世界なんて、彼女を踏みにじって出来た世界なんて――意味がない」
一歩、彼は前に出る。
「聖玉をもってすれば、改変は容易だからね。……それにね、レイル」
また一歩、距離が縮まる。
「もうゲームは始まっているんだ。今更やめたって、どうしようもないんだ」
「……あなたがリディアの意志を捻じ曲げるなら、私はあなたを止めるわ」
彼女は立ちあがった。彼は目を細めて嗤った。
「いくら思念体といっても、君は君だ。俺を殺せない」
「……けれど、あなたも私を殺せないわ」
彼は手を翳した。高密度の魔力が渦を巻き、風が立ち上る。
「殺せない、なんてことはないよ……さよなら、レイル」
風を切る音が、彼女を襲う。首を風が掠める――はずだった。
「っ!?」
風は彼女を通り過ぎ、その奥にある森の木々を切り倒した。鳥たちが逃げるように飛んでいく。
「……どういう小細工かな」
続けて彼は炎、水、光、闇、氷、雷の矢を出現させ、彼女に発射した。しかし、そのどれもが彼女の体を通り抜けた。
「グレイ……私達はここにいてはいけない存在なのよ。もう、眠りましょう」
「なにを……」
彼女は、歌った。優しく、美しく、透き通った、天に高く上るような歌声で。
その歌に、彼は心が抉られるような気がした。今の自身の存在というものをすべて甘く溶かしつくされてしまいそうだった。耳を塞ぐが、心の葛藤は消えはしない。呵責、煩悶、懊悩、それが押し寄せる。
いつまでも消えない憧憬はずっとそばにあるというのに、あまりにも遠かった。彼女の顔さえも近くて遠い。あの頃と変わらないものが、そこにあるというのに、それに手を伸ばすことはできない。
そんな痛みの中で、彼は気づいた。自分の胸の妙なざわつきと、ざらついた感覚が脳に訴えかけている。
「……そうか、そうか。君は俺の対極にいるんだね」
彼は耳を抑えながら、どこか納得したように呟いた。
「――君の核は、ミコトなんだね」
思わず、彼女は歌うのをやめてしまった。
「そうか……君が思念体になれたのも、ミコトの核を使ったからだとなれば、話は違う」
くく、と心底楽しそうに彼は笑った。
「それなら俺と君は、思念体としては"兄妹"ということだね」
彼の言葉に、心を乱さずにはいられなかった。懐かしさが押し寄せる。すり切れていた記憶の断片が舞い戻った。きらきらした光の中にやわらく差し込む温もりがどうしようもなく心を鈍らせる。
「合点がいった。君が、なぜ俺が思念体になったか知っていたというのも、俺の魔法が効かないというのも……全部、納得だ」
効くわけがない。なにせ彼女は彼であり、彼は彼女であり、彼女は彼女であり、彼は彼であるのだから。
「あぁ、君の核が知れたいま、俺は俺として君を殺すほか道はないようだ」
「……もう、私もあなたも遠回りしすぎたのね」
近くて遠いことは、彼女も分かっていた。淡い期待は飲み込まれてしまった。雑踏に踏みつぶされていくもののように、意識に上がることもなく、ゆるやかな下降を辿って消えていく。
「そうだね。……でもね、遠回りするのは、俺だけで良かったんだ。君が孤独を知ることなんてなかったんだ」
「私達、二人とも孤独だったのにね。はじめから、分け合えばよかったのかしら」
「……それは、どうだろう。君と俺の核は対極だ。それでいて、とても近い。一つが二つになったのに、また一つに戻ることなんてできるのかな」
「きっと、出来たのかもしれない。それを信じて、二人で歩めていたのなら」
花弁が舞い散る。風はない。
「そんな未来があったのなら……どんなに、どんなに良かったんだろう」
諦めてしまった未来がまだかすかに光っていた。それはあまりに深い闇の中にあって、ずっと気付けないでいたものだ。手を伸ばせばいつだって選び取れそうなものだった。あの幼く、甘く、苦しい時間に戻っていけると、そう思わずにはいられない希望が、まだ瞳の奥に見えていた。
それでも、彼は動く事ができない。踏み出す勇気はとうに使った。心のエネルギーはもう不可逆だ。一方通行的なそれは、一瞬のためらいにさえ心を切り裂こうと暴れ出す。
「……ずっと、痛かったんだ」
耐えきれない痛みに涙も枯れた。どんなことに心を痛めたのかの仔細も覚えていられなくなった。ただ痛みという事実だけが傷を残している。
「……ずっと痛くて、痛くて、誰かに助けてほしかった。寂しくて、暗くて、楽しい思い出は全部どこかに沈んでしまっていた」
今もなお切り裂かれる心を抱きながら、彼はくしゃくしゃに歪めた顔のまま彼女に笑う。
「俺は、君を殺すよ。それでも、君の顔を見ていると思い出すんだ。あったかくて、やさしくて、なにもかもが満たされていた、あきらめていたあの時間を」
「いいえグレイ、まだ道はあるわ。あなたが救われる道は、きっとある。だってあなたは、こんなにも心をぐちゃぐちゃにされたって、たった一つの答えを願っているもの……!」
救われたい。抗えない現実のなかで、彼がたった一つ願ったこと。理不尽な運命に飲み込まれて消えてしまった願いは、いまも水底で光っている。灰色の瞳の中で、怯えるかすかな息吹がそこにある。
「私は……私は、あなたを救いたい」
何度だって繰り返したとしても、すれ違ったとしても、この思いは消えはしない。彼の願いがずっとあり続けたように、彼女の願いもまた、ずっとそこにあるのだから。
彼の瞼が震える。まつ毛がつくる影に、目の膜がひときわ煌めいている。
「……ここにきて、君からそんな言葉がきけるなんてね。なんて、なんて皮肉な運命なんだろう」
「皮肉なんかじゃないわ。何度だって言う。グレイ、まだ道はあるわ。今からでも、今からでも……!」
彼女の嗚咽の混じった声が、雨の気配にかき消されていく。森を覆うようにたれ込めた灰色の雲が、影を濃くしていった。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。雨は二人の温もりを奪い取り、頬を濡らす。
「――……本当に、ありがとう。そして、さようなら……レイル」
優しく甘い声とともに、視界が彼で満たされた。
なんと甘美なことか。彼の愛おしい眼差しがいまは自分に向けられている。他の誰でもない、たった一人、自分に向けられている。その事実が彼女の心を満たしていく。それでもその思いは毒にしかならない。ずっと彼女が握っていた祈りとは異なるものだ。
自らの首にかけられた彼の手が愛おしい。そんな歪んだ感情を抱くほど、彼女は自分が長いときの中で彼に飢えていたのだと痛感する。
満たされる思いと失われていく願いが彼女を苛む。天秤にかけられたそのどちらも彼女が焦がれていたものであるがゆえに、彼女は引き裂かれるような思いに駆られた。
ゆっくりと視界が霞んでいく。遠くなる世界には彼しかいない。けれど彼は泣いていた。笑いながら、泣いていた。あれだけ殺すと言葉にしたというのに、心が悲しんでいる。
その瞬間、彼女は選んだ。天秤のどちらをとるか、そんなもの、悩むべくもなかったのだ。彼女の願いは、彼の涙を拭うことだった。拭うために、二度目の命を選んだ。拭うために、千年の孤独を選んだ。たとえいまはすれ違ったままだとしても、まだ方法はある。一度諦めてしまった道は、永遠に失われてしまったわけではない。遠回りの果てに、きっとある。
そう思った彼女の脳裏には、ふと、一度だけ出逢った少女の顔が思い出された。かつての幼馴染によく似た、けれど全く違う少女の顔が、彼女の心の中を締め付けた。
まだ――道はある。
確信した。決して淡い希望などではなく、燦然と輝く力強い確信が、そこにはあった。
そしてその確信を感じるとともに、彼女の心臓には刃が突き立てられたのだった――。




