幕間
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時は少し遡る。
アン=ローゼンは誰もいない大広間を階段の上から眺めながら、敷かれたカーペットの赤さがやけに気になった。
アンは木造りの手すりに触れながら、そのじんわりとした冷たさに自分の体温が奪われていくような、そんな恐怖感に襲われた。
人気のない屋敷では、呼吸の音さえ大きく響くような錯覚を起こす。
アンは一歩、階段を降りる。また一歩、また一歩、踏みしめるように歩く。しかし彼女の表情が動くことはない。
エリーザ。小さく従者の名を呼ぶが、返事はない。今は自分の命令で彼女を王城に向かわせている。失念していたわけではないというのに、アンは不思議と従者の名を呼んでいた。
今、屋敷にはアンしかいない。従者は全員日記回収と、他の諜報任務にあたらせている。この屋敷にはアンが張った特別な結界があり、門に踏み込むことはおろか、通行人程度では屋敷の存在さえ気づかない。そもそもこの屋敷は、かつては後宮の離れだった。そのため現在でも普通の人間は立ち入らない。訪れるのはそれなりの身分のものか、はたまた腹に一物抱えた曲者か、そのどちらかだ。
アンは久々に庭にでも出ようかと思い、大広間の階段を降りて玄関正面の庭に出る大扉を開こうと足を動かす。しかし、扉に手をのばしかけ、溜息を漏らした。
「何の用だ、グレイ」
アンは振り返ることなく、自分が先ほどまでいた階段の上に向かって話しかける。
「あれ、気付いてた?」
すると、実に意外だと言わんばかりの素っ頓狂な声が降ってきた。アンは突然現れた男、グレイを一瞥した。
「当たり前だ。私の屋敷だぞ。貴様がその無粋な足で私の結界をくぐったのを、はっきりと感じていた」
「うーん、そんな辛辣な物言いをしなくてもいいんじゃないかと思うけど。ま、いいや」
グレイは本当に素っ気なく言うと、にこにこと笑みを浮かべたまま「今日は誰にも邪魔されずに君とゆっくり話がしたくてね」と大仰に手を広げた。
アンはそんなグレイをゴミでも見るかのような目で見た。
「今更貴様とゆっくり話して何になるというのだ」
「まぁまぁ。有益な情報の交換ぐらいしたっていいじゃないか。それに、君には知ってもらわなきゃいけないこともまだあるんだよ」
グレイは階段を降りてアンの隣を通り過ぎ、その大扉を開いた。外の光が屋敷に差し込む。アンは目を細めた。
「おいで。こっちにきて話そう」
アンは差し出された手を握ることなく、グレイの言葉に従って外に出た。
鬱蒼とした木々に囲まれた屋敷だが、庭だけはエリーザが手入れをしてくれている。とはいえ、人ひとり、しかも普段から屋敷を留守にしがちな彼女が出来る範囲は限られている。生前アンの母が好んでいたという薔薇園のみが、今は鮮やかに咲き誇っている。
立派な屋敷の外壁は蔓が巻きつき、薔薇園以外の細かなところには雑草が生い茂っている。かつての後宮などという華やかさとはかけ離れた姿だ。
グレイは薔薇園の前までくると、ぽん、と手を叩いた。すると、そこには真っ白な椅子とテーブル、そしてティーカップ、ティーポット、お菓子が現れた。
僅かに香ってくる紅茶の匂いにアンは眉をしかめた。まさかグレイがこのような本格的な談笑の用意をするとは思っていなかった。
「ん、どうしたんだい? 早くこっちにおいでよ」
「……はぁ」
アンは観念して席に着く。上機嫌なグレイの顔など正面から見たくもないが、そうもいっていられない。今回この男が従者が一人もいないときを狙い、かつこの男もあの姦しいガキ従者をつれていないところをみると、どうやら本気で会話をしにきたらしい。
「さて、なにから話そうかなぁ。君とこうして楽しく話せるのはいつ以来になるんだろうね」
「……私の記憶にはないな、貴様と楽しく談笑などというものは」
「そう? まぁ、俺は君との出逢いの日からハッキリと覚えてるけど」
「出逢いの日……? 私が母上に連れられて貴様に会った時か?」
「うーん、君と喋ったのはあの時が最初だけどね。でも、出逢いの日は違う。君が記憶に無いのも当たり前だ。俺はね、君が生まれた日に君に会ってるんだよ」
「…………は?」
アンは口をへの字に曲げた。袖の隙間からちらりと自分の腕を見れると、鳥肌が立っていた。嫌悪という感情はこれまでにも抱いてきたことはあるが、今回のは嫌悪というよりも、得体の知れない気味悪さだった。
アンは冷静に、今のグレイの言葉を分析してみる。自分の誕生日にグレイと会っている。別段その事実そのものは気味悪くなどないし、世の中としてあってもおかしくはない。しかし改めて言葉にされると、しかもグレイに、なんとも言えない気持ちになる。
「アン、なにか失礼なことを考えていないかい?」
「さぁな」
出来るだけ突き放すように言っておく。あまりこの男を調子に乗らせておくのは癪だ。
「ほんと、小さい頃の君は素直でよく笑う子だったのに」
「なにを……」
「ご両親のことは、本当に残念だと思っているよ」
悲壮的なグレイの声が、アンの耳に強く残る。抑えつけていたなにかが、アンの胸のあたりからゆっくりと湧き上がってくる。アンは拳を握り、大きく息を吐いた。目の前の男の思惑はわからないが、碌なものではないことだけは間違いない。
「まさか、君の六歳の誕生日にあんなことになるなんてね……」
「…………過ぎた話を蒸し返して何になるのだ」
「君の起源を辿るのは大切なことだよ。奥の宮の巫女ってのは、代々アールフィルトの力を受け継ぐ。けど、なんで君はアールフィルトの力を持つことができたのか。なぜ君たちの、ローゼンの一族がその力を持っているのか。そのルーツを知ることは、今回の旅にも大きく関わるからね」
グレイはチョコレートを人差し指と親指で弄び、それから堪能するように口に運んだ。指先についたチョコレートを舐めとりながら、グレイはアンに微笑んだ。
「君のアールフィルトの力はまだ完全じゃない。アールフィルトの力ってのはね、なにも未来予知や、強力な結界の生成、解除だけじゃないんだよ。確かに圧倒的な破壊能力こそ持たないが、創造という事においては右に出る者はいない」
「ローディラルトを除いては、な」
「おや、君もローディラルトの存在は知っていたのかい」
「この屋敷にある文献を読み漁ったおかげでな」
「それなら話が早い。あの二柱は双子の神でね、とても強かったんだそうだ。だけど、彼らは悲しくも同じ女神を愛してしまう。その女神を巡って、彼らは対立こそしなかったが、結局女神はどちらのものにもならなかった」
「……なんだその御伽噺。それを私に信じろと?」
「まぁ聞きなよ。それで、どちらのものにもならなかった女神なんだけどね、その女神、実は呪い殺されてしまったんだ。アールフィルト、ローディラルトの寵愛を一身に受けたその女神に嫉妬した女神がいてね。その嫉妬した女神が、呪いをかけて殺してしまったんだ」
アンは眉間に皺を寄せた。グレイがなぜこの話をしているのかの真意が読めない。本当にアンのルーツを語るためなのか、それさえも疑わしくなってきた。しかしグレイは言葉を続ける。
「その嫉妬した女神の名をリリィ。そして殺された女神はフィンディア。死んだフィンディアの魂は二つに分かれ、永い時間を彷徨った末に、二人の人間に生まれ変わる」
アンは大きく溜め息を吐いた。
「そのうちの一人がローゼンの祖先とでもいうのか?」
嘲笑をこめてそう言えば、グレイはニヤついた表情を崩すことなく頷いた。アンは目を見開いた。そんな確証のない御伽噺を真剣に話す男ではなかったはずだが、とアンはグレイに対して不信感を抱く。
「私にそんな馬鹿馬鹿しい話を信じろというのか? そもそも魂などという不確かな物質がこの世にあり得るのか」
「信じる信じないは任せるよ。ただ俺は事実しか話してない。とにかく、君の一族の始祖は元々ただの人間じゃなかった」
「では、仮にそうであった、としよう。それとアールフィルトに何の関係があるのだ?」
「アールフィルトとローディラルトはね、二つに分かれた魂をそれぞれ愛した。元々一つだったものだ。本質に差異はない。それに、魂が二つに分かれたおかげで兄弟で取り合うこともない」
「つまり、アールフィルトに寵愛を受けたことで、ローゼンの始祖はアールフィルトの力を手に入れた、と?」
「ま、そーゆーこと。だからこそ君たちの一族は生まれながらにアールフィルトの力を持っている。とっても貴重な一族なんだよ」
「……なるほどな。だから私達の一族は時代が下った今でも国に管理され、人目につかないこんな奥の宮なんて場所にいるのか」
納得した。アンは紅茶に口をつける。やはりエリーザが淹れてくれたものでなければダメだな、とカップを置く。
「アールフィルトの力を持っていることがどれほどメリットかは、君が一番よく分かってるよね」
「あぁ。……しかしグレイ。貴様、なぜさっきのような話を知っている? そんなことは文献にも書いていなかった」
「……そりゃ、文字が発達する以前の、まさに神話の時代の出来事だからね」
「質問に答えろ。文字化される以前の出来事をなぜ知っている」
突きつけられたアンの言葉に、グレイは微笑みを絶やさないまま押し黙った。
「私には貴様が分からぬ。先ほどの魂などという存在も認めぬが、何より不確かなのは貴様の存在だ」
凛とした声が響く。冷たい風が通り過ぎた。グレイは口元に手をあてた。
「それを君が言うのかい? 俺からしたらアールフィルトなんて得体の知れない、神なんて呼ばれてる異物を体に持ってる君も十分不確かな物質だと思うよ」
「……貴様にこんな事は言いたくないが、それはお互い様だろう」
カップを持つグレイの手が、僅かに震えた。ゆっくりとアンへと視線を向けるその瞳の中には、驚きと好奇の色が滲んでいた。
「それは、どういう意味かな……?」
噛み締めるように、一言を一言を確かめるようにグレイは言葉を紡いだ。まるでエサを欲する犬のようだ。アンは思わず顔を歪めた。
「私から言わせれば、五百年以上も生きてる人間の方が不確かな物質だ」
「へぇ。……隠すつもりもなかったけど、それはどこで知ったの?」
「さて、どこだったかな」
「ふーん。まぁいいよ。いずれ分かることだったし。君のご指摘の通り、俺は五百年以上生きてる。正確にいえば、生きてるというよりも、作動していると言った方がいいのかな。俺は人間じゃないからね。システム、あるいは、そうだな、機械か何かだと思えばいい。意思を持って動くシステム、それが俺の正体、かもね」
グレイは静かに席を立った。ぬばたまの黒髪が風にさらわれていく。女性的なその後ろ姿が、アンの目に焼きつく。
「グレイ……貴様の本当の目的はなんだ? 世界をあるべき姿に戻すという言葉は、本当に貴様の目的なのか?」
背中に向かって話しかける。わずかな沈黙。グレイからの返事はない。アンは待つ。どれぐらいの沈黙が流れただろうか、グレイは本当に小さな声で呟いた。
「俺の願いは、今も昔もたった一つだよ」
アンが真意を尋ねようと口を開いたときには、風とともにグレイは消えていた。一人残されたアンは、心の中でグレイの言葉を反芻した。




