幕間
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帰還したフォーワードは、アン=ローゼンへ日記を献上し、事の顛末を報告してから自室へと向かっていた。
「おかえりなさい、フォーワード」
壁に体を預けるようにして歩いていたフォーワードは、甥の声にゆっくりと振り返った。明かりの下で腕組して壁にもたれかかっているグラベボは、ふてぶてしい笑みを浮かべている。
「ずいぶんとボロボロじゃないですか。珍しいですね」
「……別段どうしたこともない」
そっけない声で答えたものの、フォーワードはどこか安心した。姉と義兄によく似た甥の顔を見ると、どうしようもなく安心する自分がいることを噛み締めながら、しかしそれを面に出すことはない。
「あなたらしくもなく、久々に遊んだのでは?」
遊んだ。そう言われ、フォーワードは否定の言葉を寸での所で止めた。確かにナールの適合者で実験をした。新薬の効果がどれぐらいか、ゼログランの魔力がどんなものか、興味本位で少し深追いしたのは事実だった。
「……ナールの適合者は、間違いなくゼログランの使い手だった」
それだけ言うと、グラベボは一瞬にして好奇の色を浮かべた。ワナワナと肩を震わせている。
「それは、僥倖ですね……!! あぁ、そうでしたか。やはり彼は……!! フォーワード、それで? どうでしたか、彼の魔力というものは?」
珍しく興奮しているな、と甥の姿に思わず笑みを浮かべかけ、フォーワードは口を引き結んだ。
「そう、だな。……やはり、変質していた。"歪む"という言葉以上のものだった。魔力の残骸が時間をかけて歪むのとは訳が違う。……あれは、人間が扱う魔法の域を超えていた」
フォーワードの記憶を辿るような物言いに、グラベボは興奮した気持ちを静めた。
「あなたがそこまで言うんです、よほどのものだったんですね……」
魔法とは一体何か。人間の中にある魔力とは一体何か。体のどの器官から生じているのか。それこそがビーン家とそれに連なる家系の研究者が長年追い求めてきたものであり、フォーワード自身が得たい答えでもある。ゼログランとは、稀代の魔術師フランによる大禁術であるが、では禁術たる所以は一体どこにあるのか。魔力変質さえ引き起こす最大の要因とは何か。ゼログランの適性者にはどんな共通点、どんな性質が備わっているのか。彼らには謎が多い。研究資料が少ないせいもあるが、彼らの謎の解明が進めば魔力の謎の解明にもつながる。
そしてその謎に、その真理に近づくことこそが、フォーワードという一人の科学者の悲願である。フォーワードは自分にはどこも似ていない甥の顔を見つめながら、自分の悲願の果てしなさをひしひしと感じた。
魔法について研究している学者は多い。されど、その誰もが証明できない。グラベボの研究している詠唱破棄でさえ、根本の定義から見直さなければならない。見直すというよりも、証明しなければならない。
詠唱は万物に語り掛け、力を貸し与えてもらうためのものだと、長年信じられてきた。しかし、万物に声が届くのか、その証明をしたものはいない。かつては精霊、万物に宿る命と交渉する術を人間も持っていたという。しかし、今はそのような人間は皆無に等しい。ロディアゼルでさえ絶対数が少ない上に、精霊の声の聞こえ方も異なっている。そうなると、別のアプローチで万物との交渉、および詠唱の与える影響というものについて考察しなければならない。
ひとまずグラベボは魔術式による万物への命令を組み立てているものの、式の組み立てを間違えればどんな事故が起きるのか知れたものではない。
「しかし、そこまでの魔力変質を起こしていながら彼が生きていることが不思議ですね」
「……それが、適性というものだろう」
「変質に対しての適性ですか? それじゃ彼の魔力は生まれながらに異常の類であるといえますね」
「なぜだ?」
「もともと歪んでいたか、あるいはゼログランによって歪みが起こり始めたとしても、その歪みに柔軟に適応してしまう。どちらにせよ真っ当な、普通の魔力とは言い難いのでは?」
「普通……か。たしかに、一般的な事例やデータからはほど遠いのが事実だな」
フォーワードの脳裏に先の戦いが思い起こされる。あのまま戦い続けていたならば、確実に殺されていただろう。いや、前もって仕掛けを作っていた分、思惑通りに展開していっていたが、あの魔力変質の前では小細工は効かない。
「フォーワード?」
「……?」
グラベボに視線を向ければ、彼はどこか懸念するような目つきでフォーワードの事を見ていた。その瞳は、グラベボの母親によく似ている。
「いえ、なんでもないです。……疲れたでしょう、ゆっくり休んでください。それじゃまた、フォーワード"叔父さん"」
背を向けて廊下の奥へと消えていくグラベボの背中を見送りながら、フォーワードは胸の中にあるわだかまりが動いたような気がした。
そして彼は、自室へと足を向けながらも頭の中でそのわだかまりについて考えてみた。
はじまりは――七年前になるだろうか。妻を失った翌年の、年の暮れが近づいてきた頃だった。あの日も姉夫婦の研究の手伝いをする為、屋敷を訪れていた。予定より遅くなり到着したのは夕方だった。やけに静かな屋敷の中に、漂う異臭。身の毛のよだつような気配。姉の研究室はもぬけの殻で、誰もいなかった。異臭を頼りに地下へと進めば、そこには――。
フォーワードは部屋のソファに腰を下ろした。
あの日の光景はとてもおいそれと口に出せるようなものではなかった。ただ惨たらしい姿になった姉夫婦の骸と、茫然と立ちつくす一二歳になったばかりの甥がいた。実験に使用したと思われる機材は大破、不完全な魔法陣は血に塗れてとても読めたものではなかった。
なにより、抱きしめた甥の体は人のものとは思えないほどに、冷たかった。真っ青な唇に、真っ白な顔で、光のない瞳を叔父に向け、ただ一言「僕が――殺したんだ」と。
そうだ、あの日がはじまりだった。よく笑う子だった甥が、素直に笑わなくなったのは。自分の顔から、感情の起伏が消えたのは。幸も不幸も、善も悪も、ただ目の前を過ぎ去っていくという点では等しい。だから幸せに喜ぶことも、不幸に嘆くことも、善を捧げることも、悪に従事することも、なにも、なにも――自分の心を動かすには至らないのだ。
ただあの子を守る。姉夫婦の大切な形見を、守ることしかもう、残されていない。
聖玉も、世界の崩壊も、八大国の確執も、誰かの意図も。あの子を傷つけなければ関係ない。
守るべきものはもう――たった、一つ。
ソファに体を預けたまま、彼は思考の海に沈む。それは願いであり、義務であり、意義であった。窓から差し込む白銀の光が彼の足元を照らす。外からは木々のざわめきが聞こえた。そして彼は、ただ願いながら目を閉じた。




