幕間
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月明かりに照らされた薄暗い部屋の中、ソレは蠢いていた。ゆらゆらと形のない"影"が、床に這いつくばっている。不定形のソレはグレイからは一定の距離を保っている。その様子をグレイ=ジェルドは汚物でも見るかのような目で眺めていた。
「やぁ、久しぶり」
「何しに来たんだい」
明るい声を発した"影"に対して、グレイはこれでもかという嫌悪を込めて返事をした。"影"はケラケラと笑う。
「なにって、俺と君は運命共同体みたいなものじゃないか」
「そんなものになった覚え、俺はないんだけどな」
久しく顔を見ていなかったら油断した。グレイはじろりと輪郭のぼやけた"影"を睨む。
「あっれぇ、随分嫌われたものだなぁ。二千年前はもっと俺に素直だったのにね」
「二千年も経てばさすがにお前の扱いにも慣れるってことだよ。それに、今じゃもうお前の"声"は俺には聞こえないんだ」
グレイは肩を竦めた。辛辣に言ったところで"影"は楽しげに揺れるのを止めない。
「それはそうだ。俺も君の"声"は聞こえなくなったし、当然だよ。それに"声"ってのは適正判断にしか過ぎないんだから。適正が分かれば不必要なものなんだよ」
「ふーん。それで? 思い出話をするためにここに来たんじゃないんだろう?」
グレイが"影"を睨みつけると、"影"はとぼけた様に間抜けな声を出した。グレイは思わず舌打ちしてしまう。
「ちょっとちょっと、俺の前だとキャラ変わってない?」
「俺はお前にはもう興味がないからね」
「困ったクソガキだなぁ。ま、そんな君だからこそ、俺は君を選んだんだけどさ」
「そういう達観した物言いのお前だって、俺には興味ないじゃないか」
「お互い様だね。いいじゃないか、お互いを利用しつくす運命共同体ってのも。まぁ、運命っていっても生死は共用してるわけじゃないけどさ」
「お前のせいで死ぬなんて真っ平御免だ」
「あはははは、俺も!!」
快活に笑うこいつの、こういう所が気に入らないんだ。内心で吐き捨てながら、グレイは"影"に手のひらを向けた。
「減らず口め。用事がないなら帰ってくれ。俺はいま機嫌が悪いんだ」
手のひらに魔力が収束していく。高密度の魔力にグレイの周囲の空間が僅かにだが歪み始めた。"影"は慌てたように「ごめんごめん」と笑みを引っ込める。
「……全く、同じ"種"なのに、どうしてもこうも違うんだろうね」
「何か言ったかい?」
「ううん、なんでも。それより、いくつか聞きたい事があってね」
すこぶる面倒くさい。同族嫌悪というべきだろうか、グレイはとにかく目の前の"影"との会話が億劫で仕方がない。グレイが黙っていると、"影"は勝手に話し始めた。
「最近君が活発に動いてくれているお陰で色々状況が変わっているからさ、見ている俺は楽しいんだよね。ただ幾つか気に入らない事もあったりするけど、まぁそこはある程度許容しよう。なんせ愚かな人間のすることだ。俺ぐらいはそれを許容してやらないとね。あぁそれでグレイ、君に聞きたいことの一つなんだけどさ」
長々と喋ったあと、本題の前で"影"は一度黙った。そして不定形だった存在から、圧倒的な力と存在感を持つ"生物"へと姿を変える。薄暗い部屋の中で月明かりを浴びて、銀色の御髪が輝いた。
「君、"パンドラの箱"の在り処を知っているね?」
真紅の獰猛な瞳がグレイを捉える。しかしグレイは微動だにしない。それどころか薄らと笑みさえ浮かべている。
「知っていたとして、どうするっていうんだい?」
挑発するようにグレイが笑えば、"影"はすっと双眸を細めた。
「教えてよ。君も知っているだろ、俺の目的がそれだってさ。何度もマヨクワードゥに足を運んだ君なら、"パンドラの箱"と対面したことぐらいあるんだろう?」
「確かに俺はお前に言われて何度もあの島には行ったさ。ただ、実際に"パンドラの箱"を見た事はないよ。なんせアレは魔物たちにとっても秘蔵だからね。いくら俺でも無理だった」
「けど予想はついてるんだろ」
余裕のない声音と表情に、グレイは益々笑みを深めた。いつも他人をおちょくって引っ掻き回している相手が、ここまで切羽詰っている。グレイは口許に手を当てた。
「けど俺にもお前にも何も出来ないよ。"パンドラの箱"は俺にもお前にも壊せない。それはお前が一番よく知っているだろう?」
「あぁ、確かに俺にも君にも壊す事は出来ないな。あれは無尽蔵の魔力の塊のようなものだしね。半身を失い、かつ力を分散させている俺には、到底手も足も出ないよ」
「ならなんで……」
「俺自身には無理でも、方法はいくらでもあるんだよ」
不敵な笑みを零した"影"に、グレイは背筋が凍るような思いになった。それと同時に、最悪の事が脳裏に浮かぶ。
「まさか最悪の二柱を目覚めさせるつもりじゃ……」
しかしその想像はすぐに否定された。
「いや、それは本当に無策になったときの奥の手だよ。あの二柱は危険すぎる。下手をすれば"パンドラの箱"とその二柱を残して、生命が全て消失する可能性だってある。俺が死んで"パンドラの箱"だけが残るなんて結末、認められるものか……!!」
瞬間、部屋に置かれた花瓶が勢いよく割れた。"影"は砕けた破片を一瞥しただけで、また話し始める。
「俺はね、人間は別に嫌いじゃないよ。愚かしくて、短命で、個は単一しか存在しない、とっても可愛い生き物だからね」
"影"の声音には嘘偽りはなく、ただ純粋に、真っ直ぐに、羨望以上に愛玩という念しかこもっていない。グレイは"影"の言葉を聞きながら、違和感に似たものを感じた。
「可愛いといっても、お前の関心の矛先は人間には向かないんだろう?」
「……さぁ、どうだろうね。確かに俺は人間っていう種族のことは可愛いとは思っているよ。けど、グレイ、君個人には何の興味も沸かないのは事実だね」
少し考え込むような口ぶりで"影"はそう告げた。しかしグレイは知っている。この"影"は所詮エゴイストなのだと。自分と同じで、自分の目的の為ならば他者を利用し、他者を排除し、自分の望みの達成の為に全てを滅ぼすことさえ厭わない。
――なんて、愚か。
その言葉はグレイ自身に全て返ってくる。結局自分自身も"影"と同じ、所詮エゴイストに過ぎない。自分の目的の為ならば誰だって利用する。何度だって罪を犯す。最早、人間が定めた法も倫理も価値観も、グレイにとっても"影"にとっても抑止力にはなりえない。
「……ねぇ、グレイ」
ぽつり、と"影"が名を呼んだ。
「俺はね、昔はアールフィルトもローディラルトも尊敬していたんだよ」
「それがどうしたっていうんだい」
「まぁ聞いてよ。俺はさ、憧れていたんだ。同じ双子として。もし俺が弟じゃなくて妹だったら運命は変わっていたのかなってさ。あの偉大な二人を思うと、ずっと自分が情けなかった」
グレイは"影"の言葉の真意が、なんとなく分かっていた。むしろ二千年前、この"影"が"影"になる前に抱いていた感情は、今も変わっていないのだと感じるには十分だった。
「けど現実は綺麗事じゃ済まない」
「そうだね」
どんなに望んだって手に入らないものがある。どんなに願ったって救われないものがある。どんなに努力したって越えられない壁がある。どんなに拒んだところで受け入れなければならない悪がある。それはいつの時代も同じで、決して揺らぐことのない不変の真理。
「アールフィルトもローディラルトも、結局は救われなかった。彼らはみな、誰も救われなかった。どれほど安寧を望んでも、どれほど一つの愛を欲しても、それは決して手に入るものじゃなかった」
太古の昔、原初の命。創世の神と呼ばれた二柱でさえ、万能ではなかった。
「最悪の二柱だってそうだ。彼らはあれほどの力を持っていながら、常に虚無で、満たされてはいなかった」
"影"は銀の御髪を振り乱す。差し込む月光に煌めくそれは、どこまでも澄み切っている。人ならざる存在故の苦悩というのか。けれどグレイは、その苦悩が分かるようで分からない。グレイ自身、人であって人ではない。それは事実だ。それでも、彼は人として生を受けた、紛れもない"人間"だ。だからこそ、目の前の"影"の苦悩の底は知れない。
「ねぇグレイ。君はさ、適合者を見ていてどう思うんだい? 俺には、どうしようもない因果に絡めとられた哀れな若者に見えるんだよ」
嫌に芝居がかった台詞に、グレイは腹立たしさを覚える。エゴイストが、また何を言うのか。その因果を作り上げたのは、お前もだろう。そう言って皮肉を言ってやろうと思った。もちろん、その皮肉はすべて自分に返ってくる。
グレイはしばし考えた。
「……俺は人間だからね。適合者全員には少なからずの同情の気持ちがあるよ。でも、俺からしたら彼らはどう転んだって良くも悪くも"犠牲"なんだ。リディアを救えなかった俺は、どんな犠牲を払ってでも、この世界をあるべき姿に――いや、俺が望む世界に改変する。その為ならどんな犠牲だって払う。所詮は、俺もエゴイストだからね」
「ふーん。最後のは俺へのあてつけ?」
「運命共同体なんだろう?」
グレイがそう言えば、"影"は目を丸くして固まったのち、笑い出した。グレイはそれを横目に話を続ける。
「でも、ロベルティーナの適合者は違う。彼女は似ているんだ。そしてそれ以上に、あの子こそが世界の体現者なんだよ」
その言葉に、笑っていた"影"の声がぴたりと止んだ。
「体現者? あの子が?」
「そうだよ。因果に絡めとられた哀れな体現者だ。まぁ、きっとこんな事を言っても彼女には理解されないだろうけど」
グレイは快活で気丈なロベルティーナの適合者の顔を思い出す。脳裏にこびりついて離れないのは、彼女が"彼女"の面影に重なるからだろう。
「グレイは、本当にロベルティーナがお気に入りだよねぇ。……ナルダンの方は、相変わらず嫌いみたいだけ――」
言い終わる前に、"影"の下半身が消し飛んでいた。グレイの右手からは魔力の痕跡があふれている。"影"は下半身を失い、ゆらゆらと漂っている。
「あぁ、大嫌いだよ。あの男がいなければ良かったのにね」
「俺に八つ当たりしないでよ」
「わざらしくあいつの名前を出したお前が悪いんだよ」
「ちぇっ。俺は今の方の事を聞きたかったんだけど」
そう言われ、グレイの脳裏に深緑の頭髪をした青年の顔が浮かぶ。別に顔はあの男に似ていない。けれど目つきの鋭さと意思の強さは、あの男にそっくりだ。
「……今も昔も、嫌いだよ」
グレイの静かな言葉が、ゆっくりと闇夜に飲み込まれる。ただその静寂の中で、不気味な"影"だけが満足げに笑っていた。




