三
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「どうしてユファちゃんは右目をかくしているの?」
「えっ……」
子供達の笑い声が響く街の広場で、ひとり本を読んで、子供達の輪に入らない少女がいた。その少女はいつも右目を眼帯で覆っていた。少女がこの街に越してきて、三日目のことであった。
「ユファちゃん、目をけがしてるの?」
純粋な興味の眼差しが、少女を射抜いている。にこにこと可愛らしい笑顔。同い年なのに自分とは違う。
少女――ユファは、新しくできたばかりの友達の言葉に、ぎゅっと下唇を噛んだ。
「ユファちゃん?」
なんて答えたらいいのだろう。母には何も言うなときつく言われている。何か聞かれても答えてはいけないと。何も言わないユファに、その時は友達もそれ以上は何も言わなかった。
「……ただいま」
薄暗い家の中に入ると、奥の方からガラスの割れる音が聞こえてきた。
「おかあさん?」
そっと扉を開き、キッチンへと向かう。ユファが顔を覗かせると、母親が鬼のような形相でこちらを睨んできた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに相好を崩し、ユファを抱きしめる。
「おかえりなさいユファ。今日はどこも怪我してない?」
ユファの体温を確認するように、母は強く強く娘を抱きしめている。疲れきった笑顔で、ユファのことを守ろうとしている。
「うん、どこもけがしてないよ」
ユファは小さな手で母の背中を撫でた。何度も心の中でごめんなさい、と呟きながら。
それからまた数日後。
今度は学校の帰り道に、また同じ質問をされた。しかも今度は大人数で、男の子たちまでいる。
「ねぇユファちゃん! わたしたち“友達”でしょ!? お願い、教えて?」
「え……」
大人数に囲まれてしまい、ユファは逃げることもできない。前にいた街でも、何度かこういうことはあった。ユファは泣きたい気持ちを一生懸命抑えこんで、ゆっくりと息を吐き出す。
「……友達でも、ダメ。ううん、友達だからこそ、ダメ」
ちゃんと自分の気持ちを言えた。それだけでユファはもう泣き出したくてたまらない。すると、男の子たちが「なんだよケチだなー!!」と声を上げた。
「ちょっとだけ見せろよ!!」
そして、ユファに掴みかかってきたのだ。不運なことに、ここは人通りが少ない場所だ。止めてくれるような大人はいない。
「や、めて……!! やめて!!」
必死に叫び声をあげるけれど、他のこどもたちの野次や興奮した大きな声に掻き消されてしまう。しばらくもみあっているうちに、右目を覆っていた眼帯が、少年達の手によって奪い取られてしまった。
ユファは彼らに背中を向けて縮こまる。ぎゅっと目を瞑り、強い拒絶を示した。そんなユファに腹が立ったのか、少年達はついに暴力をふるい始めた。
ただでさえ小さくて細い体なのだ。ユファは痛みに耐え切れなくなり、ぐったりとしてしまう。少年達はそこでようやく我に返ったが、もう引き返すことができなっていた。
「ど、どうするよ?」
「どうって、右目見てみるしかないじゃんか……」
周りにいたユファの“友達”は止めることもせず、ただ息を呑んで様子を見守っている。
少年達は背を向けて倒れているユファをひっくり返す。細い腕で顔を隠すユファの腕をどけ、無理矢理閉じられている瞼に触れた。
「いやぁぁあああぁぁぁあ!!!!」
ユファの絶叫が響き渡る。大粒の涙が双眸から零れ落ちるが、少年達の手は止まらない。無理矢理こじ開けようとする手が気持ち悪い。ユファの心は恐怖で満たされてしまっている。
この悪夢のような今から抜け出せるなら。そんな考えがよぎってしまい、一瞬だけ体から力が抜ける。少年達はそれを見逃さなかった。眉の下と目の下に置かれた指に力を入れられ、ユファは反射的に目を開けてしまった。
「うっわぁ……」
「え、なにこれ!?」
瞬間、今まで遠巻きに見ていた“友達”がユファに近寄ってくる。好奇の目で見つめられ、ユファは更に涙を溢れさせた。
「右と左で色が違う!!」
「赤だ!! ユファちゃんの目、真っ赤!!」
「すっごーい!!」
「えーでもなんか気持ち悪いよー」
無遠慮に吐き出される言葉。ボロボロになったユファの心と体のことなどお構いなしだ。
――やめて。さわらないで。わたしを見ないで……!!
瞬間、ユファの右目が輝きを放った。
「うわっ!?」
少年達は一斉にユファの体を離す。ユファはぺたりと地面に座りこみ、呆然と彼らを見つめた。バチバチと音を鳴らしながら、右目に力が集まり始める。
「に、逃げろおぉお!!」
うわぁあぁぁぁぁあ、と悲鳴を上げながらユファを取り囲んだ子供達は逃げていく。
けれど、ユファは許せなかった。
怖くて腹立たしくて――悲しかった。こんな右目を嫌っているのは自分自身なのに。皆そうやって逃げていく。
――どうして!?
思いが膨らみ、更に右目に魔力が溜まっていく。雷電がユファの周囲に発生する。それは地面を伝い、子供達を追いかけていく。
「いやぁあぁぁあぁぁぁあぁ!!」
“友達”だと言った子は、怯えきった目でユファを振り返った。バケモノ。言外に、そう言われているような気がした。
ユファが泣き腫らした目で彼女を見つめ返せば、少女はゆっくりと走るスピードを落としていく。そして、一人立ち止まった。ユファは彼女のその行動が理解できずに困惑する。
また何か言われるのだろうか。そう思うと、耳を塞いでしまいたくなった。これ以上何か言われて傷つくなんて、ユファには耐えられそうにない。一歩、少女がこちらに歩み寄ってきた。
「……来ないで」
掠れた声で、ユファは拒絶する。
「もう……こっちに、来ないで」
悲痛な声が辺りに響く。頭を抱えてうずくまりかけているユファに、少女はまた一歩近寄った。
「ユファちゃん、あのね……!!」
「来ないでってば……!!!!」
ドガァアン。炸裂音と共に、少女の手前の石畳が吹き飛んだ。
「もう……いいから」
ユファは右目を押さえて、ゆっくりと立ち上がる。剥ぎ取られた眼帯をそっと拾い上げ、ぎゅっと握り締めた。
「ユファちゃん!」
名前を呼ばれたけれど、それを無視してユファは歩き始める。背を向けられた少女はどうすることもできず、ただ呆然とユファの背中を見つめていた。
それから、ユファが痛む体を引きずって家に帰った。
日はすっかり沈みきっており、ぼんやりと家の灯りが見えている。あの扉を開ければ、温かい空間が待っている。ズルズルと足を引きずり、痛む腕を持ち上げ、扉に手をかけた。
「……ただいま」
できるだけ気づかれないように、小さな声で、小さな音で家に入る。きっと母は自分の姿を見て、また心配するだろう。だからなるべく見つからないように、お風呂に直行して、服を着替えて、傷の手当てをしなければ。ユファがそう思い息を潜めて動いていると、ガシャァアアアァンと激しくガラスが割れる音が聞こえてきた。次いで、母と父の言い争う声。
「お前がしっかりご近所さんに説明していれば!!」
「うるさいわね!! そうやっていつもいつも私ばっかり責めて!!」
「ならどうしてユファを部屋に入れておかない!!」
「なんですって!? ユファはまだ子供なのよ! 友達とだって遊びたい盛りなのに!!」
いつもニコニコと笑っていて優しい両親だった。いつもユファの心配をしてくれる、温かい両親だった。それなのに、最近はいつもいつも喧嘩ばかりだ。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!
声を押し殺して、両親の言い合いを聞きながらユファは風呂に向かう。早く綺麗にしなくては。早くこの傷を消してしまわなければ。
そうしなければ、そうしなければ――。
最早ユファ自身、何を恐れ、何に怯え、何を懸念しているのかさえ、分からなくなっていた。ただ早くこの状態をどうにかしなければと、その事だけが頭の中を駆け巡る。
すると、さすがに音に気づいたらしい。母が「ユファ?」と声をかけてきた。ユファは湯船にこれでもかと体を沈ませ、「あ、あのね! 遊んでたら転んでね! ドロドロになってね……」と嘘を吐く。
「もう。遊ぶのもいいけど、こんな時間まで!! 今度はもっと明るいうちに帰ってきなさい!!」
「ご、ごめんなさい……!!」
扉越しにそんな会話をし、母は「もうご飯だから早くねー」と言って出て行った。
ユファは胸を撫で下ろし、ヒリヒリズキズキと痛む体をさする。湯船から一度出て、ノズルを捻った。シャワーを浴びながら、ユファは小さく嗚咽を漏らす。
「うぅぅ……」
涙も声も、悲しい気持ちも、全部全部シャワーに流されてしまえばいいのに。そんな風に思いながら、ユファは必死で声を押し殺した。そして、それからのことを、ユファ自身はあまり覚えていない。
気づけば、倒れ込んだ父と母の下敷きになっていた事は、かろうじて記憶の片隅にある。
めちゃくちゃに荒れた家の中、ひび割れた窓ガラス、床に転がっている小瓶、飲みかけのマグカップ。
全てが断片となり、景色は霞んでしか再生されない。
それから、次にユファの意識にあったのは、どことも分からぬ薄暗い景色だった。寒くて暗い、土のにおいが充満する場所。近くでは、誰かの声が聞こえている。耳元で何かを囁かれているけれど、もう聞き取ることはできない。
ユファは霞んだ視界をゆっくりと閉じていく。思考は存在していない。何もない。空白の心には、もう痛みを感じ取る術が無い。
ユファが目を閉じてから、一体どれほどの時間が経っただろうか。少しかもしれないし、それほど長くないかもしれない。時間の経過など、今のユファには何の意味も成さなかった。
けれど、変化は起きた。
冷え切った自分の体に触れる、温かな人の優しさ。手つきは粗暴で、細やかな優しさはなかったけれど、それでも確かにその手は温かくて優しかった。
「大丈夫か!! しっかりしろ!!」
自分の体を揺すられているのだと分かると、ユファの意識は段々と浮上した。
「おい、返事をしなさい!」
大きくて皺だらけでゴツゴツとしてて少し乾いた手の感触が、なんとなくむず痒い。本来ならば恐怖しか感じない存在だが、心は何故か警鐘を鳴らさなかった。
「誰か、誰か医者を呼んでくれ!」
低くてよく響く声がどこかに向けて発せられる。それに答えるように、幾つかの声が遠くの方から聞こえてきた。
あぁまた自分は――。
それ以上の言葉は出てこなかった。
もはや何も意味を成さない。この体もこの心も、ユファという名前で括られた存在は、何の意味も成さない。
けれど、目の前の男は懸命に自分に声をかけている。
それがとても悲しくて愚かしくて傷つきたくなくて――それなのにたまらなく嬉しかった。
この空虚な存在に心を砕くことに、何の意味も無いというのに。
お前がその手に抱いている存在は、ただの壊れかけた“ガラクタ”に過ぎないぞ。
近くて遠い場所で、誰かが呟いた。
目の前の男をぼんやりと眺めながら、ユファは声を出す気力すら失っていた。どうせまた壊してしまうのだ。壊れてしまうのだ。傷つけてしまうのだ。傷ついてしまうのだ。
幼心に悟った事実はあまりにも惨たらしかった。ユファの周りさえも打ち砕いて磨耗して粉々にして砂塵と化すようなこの現実が、あまりにも。
少女は何も悪いことなどしていない。少女の人格に罪は無い。少女の親にも罪は無い。だがもし仮に諸悪の根源を定義するとするならば――それは間違いなく、少女の“存在そのもの”だった。
「あと少しの辛抱だからな……!!」
矛盾の狭間から聞こえてくる必死な声が、どうしようもなく心に突き刺さった。




