死んだはずの男が帰ってきた
――ピキッ……。
『……』
刹那を境に、ひどく長く重い静寂が空間を満たす。
――……コツ。
――コツ。
時間の流れも、何一つ感じられない空間。
周囲のすべてが、まるで絵の中の風景のように遥か遠く感じられる。
空気の流れが完全に止まったのを確認して、俺はゆっくりと歩を進めた。
「やはり、一時停止の権限までは復旧したな」
こちらへ飛びかかってくる姿勢のまま、殺気に満ちた顔をした超常体たちが目の前にずらりと並んで止まっている。
同期率が上がるほど、復旧できる権限が一つずつ増える。
そこまでは、もうほぼ間違いなさそうだし。
(今後どんな状況で、どんな順番で権限を解放するかが鍵になるだろうな)
そしてここまで来たなら、あとは手振り一つで十分だ。
何百、何千回と繰り返したとおりに身体が先に動き、パチン、と短く指を鳴らす。
――バチッ、バチバチ……。
天井いっぱいに浮かび上がる、データコードの羅列。
そのあとのことは、すでに決まっている。
――メキッ、メキメキ……。
――バキッ――!
石膏像のように固まっていた超常体たちの身体が、文字どおり一瞬で、そのまま崩れ落ちる。
粉々に砕け散った超常体たちに未練なく背を向け、天秤の前へ歩み寄った。
――『ただの飾りみたいですね。柏葉さんも一度乗ってみますか?』
――『いえ。私は大丈夫です』
本当にただの飾りだろうと思って、触れなかったわけではなかった。
むしろ、その逆。
「乗っていたら、それこそ問題だっただろうな」
ディケーの天秤は善悪を判別するための正義の秤であり、人間の魂を量る道具。
天秤をこっそり手に入れなければならない以上、ここに神器があることを知らせるつもりはない。
いったん一緒に出て、隙を見てまた戻ろうと思っていたが、向こうが先に突き飛ばしてくれたおかげで、手間が省けたな。
(そして、こういう明確な象徴は、悪くないな)
皿の上にある、血の付いた剣。
それは最初の部屋の石像たちが握っていたものとは違い、『裁きの道具』を象徴するものではない。
意味するのは、その逆。
この災害が『罪』と規定する何か。つまり、人間が背負った業そのもの。
そして、すでに人を何人も殺しているだろう森谷が乗ったときでさえ、天秤は動かなかった。
(おそらく、それ以上の罪、それ以上の業を載せなければならないということだろうな)
『先輩』がどんな方法で天秤を手に入れたかは、容易に想像がつく。
そのままためらうことなく反対側の皿に乗った。
――ギィィ……。
森谷が乗ったときはぴくりとも動かなかった天秤が、少しずつ動き始める。
血の付いた剣とともに、床へと下がっていた左の皿がゆっくりと浮かび上がり……。
――……ガコン!
ついに水平を越え、俺が乗った右の皿が完全に床に着いた。
それと同時に、どこからかカチャリ、と聞こえてくるかすかな開閉音。
そして……。
『――神の権能を貪りし者、その代償を払うこととなろう』
「……!」
先ほどと同じ、雷鳴のような声が頭の中を貫く。
反射的に顔を上げたが、あの高みにある石像の目は相変わらず無感情にこちらを見下ろしているだけだ。
「……代償なら、十分に払っている。すでに」
前回と同じぼんやりとした光が目の前に浮かび上がる。
次の瞬間、青銅製の小さな天秤が手に収まった。
【〈絶対平衡の天秤〉】
――サァァ……。
(やはり、神器を獲得することがこの部屋の本当の攻略条件だったんだな)
周囲に転がっていた超常体たちの残骸が、風にさらわれるように少しずつ消え始める。
これで、目標としていた神器は確保完了。
問題は、これをどうやってバレずに持ち出すかだが、それなら心配する必要はなかった。
【〈管理者空間〉を有効化します。】
(よし、いける)
派生宇宙に派遣された管理者たちに、それぞれ割り当てられる専用の空間。通称〈サーバー〉。
「数百年ぶりだな。……ここも、もう入ることはないと思っていたが」
非現実的な純白の空間が目の前に広がる。
文字どおり果てしなく続いているこの無限の空間は、もともと管理者たちが一時的に仕事から離れて気楽に休んだり、会議をしたりするために作られた場所だった。
そのため、好みの家具を置いてアジトのように仕立てる者もいたが、俺はそういう方面には興味がなく、ほとんどインベントリとしてしか使っていなかったな。
手にしていた天秤を床に置き、周囲を見回した。
(たぶん、あの男もこういうやり方でアイテムをくすねたんだろうな)
意図せず前任の足取りをそのままたどっているのだと思うと、なんとも妙な気分になる。
用を済ませて管理者空間を解除すると、モノクロに染まっていた法廷は、いつの間にか少しずつ色を取り戻していた。
(今のところ『一時停止』を使える時間は、大体このくらいか)
やはり復旧が完全には終わっていないだけに制約があるようだが、それ以外にも災害の等級によって影響を受けるのかもしれないな。
そうして止まっていた時間が再び流れ、それからほどなくして――
――ゴゴゴ……。
前回の地獄道のときと同じように、少しずつ空間が崩れ落ち始めた。
どうやら、向こうも無事に残る一つの神器を確保したようだ。
ただ、出る前に……。
「それでも怪我くらいはしておいたほうが、怪しまれにくいだろうな」
森谷一輝はわざと俺を超常体たちの真ん中に放り込んで、一人でここを抜け出した。
こんなにぴんぴんしたまま出ていけば、間違いなく怪しまれるはず。
天秤の上にあった剣を拾い上げ、しばらく考え込んだ。
「……どこだったっけ? こっちだったか?」
じっくりと記憶をたどった。
幸いにもずっと昔、こういう現代ダンジョンものに派遣されたとき、犯罪者集団に遭遇して生きたまま解体されたことがあった。
(ここで死んだら、管理局に帰還できず永遠にこの派生宇宙に閉じ込められてしまうかもしれない。できるだけ慎重に)
それでいて、怪しまれない程度に傷をつけるには……。
「……ここからもう少し左……。ここを刺せば……。ん」
……間違えたか?
なんか血がたくさん出ているところを見ると、ビジュアル的には成功したみたいだが、あまりに久しぶりでここが急所なのかどうか、少しあやふやだという問題が……。
あまりいい気分ではなかったが、それでもありとあらゆる神器が存在する世界観なのだから、外に出さえすればこの程度はどうにか回復できるだろう。
やがて災害が完全に崩壊し、まばゆい光が視界を襲った。
一瞬目を閉じて開いたのと同時に、けたたましい声が耳を打った。
「――あ、ああああ!?!? 霖也くん!!!」
「……!! 柏葉さん!!」
「……?」
なんだ。
誰か死にでもしたのか?
俺が3班の隊員たちを見つけるや否や、結城が号泣しながら俺に飛びかかってきた。
「うわああああん!! 柏葉さん――!」
「な、何ですか……!?」
しかも辺りを見回すと、こちらを見ているほかの隊員たちの表情もどこか変だ。
そして、少し驚いた様子で立っている4班の隊員たちの中の一人と、ぴたりと目が合った。
「……ど、どうやって……」
俺を見た森谷一輝の表情に、ひびが入った。




