あなたは、いったい何なんですか?
仏教における悟りとはすなわち、煩悩の炎から解放されること。
(『煩悩から自由になる』……っていうのは、よくわからないけど)
意味するところをもう少し単純にすれば、つまり『解脱の境地に至ること』。
そして別の捉え方をすれば、文字どおりの悟り。
つまり、世界を成り立たせている万物の究極的な実体を悟ること。
どちらを基準にするにせよ、結局『悟りさえすれば』いいのなら、いちばん簡単な突破口はすでに俺の中にあった。
「……あ、はっ、あああ……!!」
(記憶を全部処理するまで、数分はかかるな)
だから結城玲央に、俺の記憶を注ぎ込んだ。
管理局で働きながら経験してきた通算500年分のすべてを。
(対象者にも、管理者にもかなり負担がかかる能力だから、できるだけ使わないようにしていたんだが)
「……これ、なに、僕に、何を、あ、頭、頭が、あああ゛っ……!!」
さっきとは比べものにならないほどの震え。
床に倒れ伏した彼の身体が、痙攣するようにがくがくと跳ねた。
じっと下を見下ろすと、この柱に群がっていた超常体たちは、いつの間にかずっと遠くまで退いていた。
『……、……』
かすかなおののきとともに、こちらを見上げる落ちくぼんだ目に、恐怖が映る。
ああ、そうだ。
これだった。
「わかったみたいだな」
『……!……』
「どけ」
――カチ、カチカチ……。
亡者たちの顎が震え、歯と歯がぶつかる音が聞こえたが、それも束の間だった。
おいそれと一歩も踏み出せず身体を震わせていた亡者たちが、地面にぺたりと平伏し、ほどなく辺り一帯が静まり返る。
振り返ると、結城はいつの間にか苦痛に呻くのをやめ、その場に呆然と座り込んでいた。
何もない虚空に何かを見ているかのように、焦点の合わない目が、ぼんやりと辺りをさまよう。
そして、ついに。
「……」
彼の全身を呑み込むように広がっていた震えが、収まった。
予想どおり、その瞬間、轟音が響いた。
――ゴゴゴゴ……。
世界を呑み込むような震動。
形を失い、崩れ落ちていく地獄道の光景とともに、ついに災害が崩壊し始める。
(やっぱり、こっちが正解だったか)
そして俺の目の前に、二つのぼんやりとした光が浮かび上がった。
(これは……)
現れたのは、黒い糸。
そして、厚い革張りの表紙の本が一冊。
【対象の情報を閲覧します。】
【〈欲界の糸〉】
【〈影の経典〉】
(神器が二つ、一緒にあったのか)
そういうこともあるとは聞いていたが、初めての災害進入でいきなりこんなケースに当たるとは思わなかった。
手に取って軽く見てみると、本の表紙には読めない文字が陰刻されている。
糸のほうは……。文字どおり、見た目はごく普通の黒い糸だ。
(どうやら、この災害の神器はこれで全部らしいな)
核をすべて回収した以上、今ごろ天道と柳がいる空間も一緒に攻略されたはず。
この『超常災害』の仕組みは、もう大体わかった。
そして、どう攻略すればいいのかも。
――ビキッ……。
真っ黒だった空に亀裂が走り、その隙間から光が降り注ぎ始める。
俺は徐々に薄れていく闇の中に立ち尽くしたまま、空を見上げた。
上位存在という連中は、人間の頭では推し量ることのできない神聖な何かで、一度物語の幕が下りた世界には、再び目を向けることはなかった。
そうして神格を失ったまま再生された『神格もの』は、存続のためにあらゆる手を尽くし、形を変え始めるのだが……。
(極めて異例だ。派生宇宙そのものの世界維持能力が高い)
これまで復旧に成功した世界は一つとしてなかったが、この派生宇宙だけは違った。
これほどの大規模なエラーが生じてなお、維持のためにしぶとく足掻くとは。
「……君を管理していた神格が誰だったのかは知らないが」
――なかなか健気な派生宇宙じゃないか。
「お疲れさまでした。では、そろそろ……。……結城さん?」
「……」
災害が完全に消滅する直前、俺はもう一度彼の記憶を消去するため、顔を向けた。
結城はぼんやりと顔を上げたまま、裂けていく空を見つめていた。
どんな欲望も感情も宿していない目。
短時間で500年分の記憶を注ぎ込んだ副作用でもあったが、それ以前に、明らかに『解脱』に至った顔だった。
つまり……。
「結城さん」
「……」
世界の構造を悟ってしまった人間の顔、ということだ。
「……柏葉さん」
俺を振り返った彼が、虚ろな目で口を開く。
諦念か。
そうでなければ、別の何か。
「あなたは、いったい……何なんですか?」
けれど、どちらにせよ俺が気にすることではなかった。
「私の記憶なら、もう全部見たはずですが」
「……はい」
どうせすぐに消える記憶だ。
少しくらい話しても、問題はないはずだ。
俺は彼の隣まで歩み寄り、同じように顔を上げて、彼が見ている空を見上げた。
「虚しいと感じますか?」
「……いいえ。そういう感情は、特に……感じられませんね」
「そうですか」
「はい。でも……」
落ち着いた声で答えた彼が、片手を上げて胸元を押さえた。
「……何か、空っぽになってしまったような……何か、大事なものが……」
珍しい反応ではない。
結城の声が、低く沈んだ。
「……柏葉、管理官」
「はい」
「……それなら、僕は……」
「大丈夫です。この記憶も、また消されますから」
すんなり受け入れると思っていた。
けれど彼は少し黙ってから、再びぼんやりと視線を上げた。
「もう少しだけ、今のこの感覚で世界を見ていたいです。今これを、ちゃんと記憶に……」
「そうはならないでしょう。残念ですが」
――ビキッ……。
言い終えた瞬間、まるで巨大なガラスのドームが砕けるように、世界が徐々に崩れ落ちていく。
その光景を少しでも目に焼きつけようとするかのように、じっと見つめる結城玲央へ、俺はまた手を伸ばした。
「少し休んでください。目を開ければ、また外です」
「……はい。僕が役に立てたなら、よかっ……」
かくん、と。
結城玲央の頭が、力なく垂れた。
◇
再び目を開けたとき、そこはさっきゲートがあった場所から少し離れた、道の真ん中だった。
「うわああ――あっ!! 離してください! 離してくださいってば! くそっ。どこ行ったの、あの氷の刀持ってたやつ!」
「……はぁ。天道さん。いい加減、落ち着いて……」
(俺たちより少し早く出てきたみたいだな)
まだ俺たちに気づいていないらしく、少し先で息巻いている天道の姿が見える。
柳が疲れた顔でため息をついたその瞬間、天道がこちらを振り向き、目を大きく見開いた。
「え? 霖也くん! それに……えっ!? 玲央くんまで! っていうか、玲央くんはなんで倒れてるの!?」
「……! お二人とも、無事ですか?」
「はい。大丈夫です。結城さんは少し気を失っているだけです」
俺たちを見つけた二人が、急いでこちらへ駆け寄ってきた。
二人とも、怪我はなさそうだな。
「何がどうなってるの? 急に災害から弾き出されたと思ったら、霖也くんたちも? 災害が勝手に消滅でもしたの? いったい何なの~!」
「あ、それなんですが」
二人はまだ状況をきちんと把握できていないらしく、怪訝そうな顔で辺りを見回していた。
少し迷ったが、やはり今は事実どおりに報告したほうがよさそうだ。
「災害の中に神器が二つ一緒にあったみたいです。二つとも、こちら側にありまして」
「え? ん? ということは……」
「……!!」
何かに気づいたらしく、その言葉を聞いて一足先に目を見開いたのは、班長の柳だった。
手にしていた糸と経典を持ち上げて見せた瞬間、しばし周囲が静まり返った。
そのまま、1秒。
「……え、あ?」
2秒。
「ちょっと、つまり……」
……そして、3秒後。
「……神器なの、それ!? しかも二つまとめて!? うわああああああっ――!!!」
呆然と立ち尽くしていた天道の口から、驚愕の叫び声が弾けた。




