第30話 迷宮の最下層を、石ころ一つで突破した
昨日、俺とコハクは九層の双子騎士を倒した。
今日で最後だ。この最深部に潜む迷宮の核こそが、コハクの命を脅かす呪詛を撒き散らした元凶だ。
俺の『鑑定』は、ものの値を書き換えれば現物が変わる。生き物の肉体には使えない。だから、この足で世界の底まで降りてきた。
地下十層は、ドーム状の巨大な黒曜石の円形広間だった。
床一面に、数千年の時を経て青白く脈動する古代の巨大な魔法陣が刻み込まれている。
バルドが言っていた、過去数百年誰一人として生きて辿り着けなかった絶対の深淵だ。
コハクがおそるおそる歩みを進めた瞬間、ガクンと膝から冷たい黒曜石の床に崩れ落ちた。
「ご主人様……っ」
黒い呪痕は、ついに頬を越えて右目の下、まつ毛の生え際まで到達していた。
魔法陣の青白い光と共鳴し、皮膚の下でドクドクと狂ったように黒い筋が脈打っている。
「頭の中で……声が……『こっちへ来い』って、すっごく呼ばれてます……」
「聞くな、耳を塞げ!」
「ご主人様の声のほうが……ずっと温かくて、大きいです……」
「よし。なら、俺がずっと喋り続けてやる」
§ § §
魔法陣の中心の闇から、漆黒の靄がゴオオオと渦を巻いて立ち上った。
鑑定してみる。
[迷宮の核]
効果 この迷宮そのものを維持している存在
呪詛の種を撒き、宿主を呼び寄せる
破壊すると、迷宮が眠りにつく
黒い靄が圧縮され、広間を埋め尽くすような影の巨大竜の姿を成した。
腹の底と脳髄を直接揺さぶるような、おぞましい重低音の思念波が響き渡る。
「……連レテキタカ。オ前ノ、荷物ヲ……」
俺は、その見下した言い方を勇者パーティで四年間、毎日吐き気を催すほど聞かされ続けていた。
だから、沸点に達するのも一瞬だった。
「荷物じゃないよ」
「同ジコトダ……弱者ハ、強者ノ糧……」
「あんた、あの上辺だけの勇者と同じ吐き気のする台詞を吐くな」
コハクの耳が、床に伏せたままピクッと動いた。
「コハク。九日間、この険しい迷宮を自分の足で歩き抜いたのは誰だ」
「……コハクです」
「そうだよ。荷物は自分の足で歩かない。お前は俺の最高の相棒だ」
§ § §
影の竜が激昂して咆哮した。大気そのものがビリビリと震え、黒曜石の床が軋む。
俺は足元に転がっていた、ただの黒ずんだ小石を拾い上げた。
枠が浮かぶ。
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
「じゃあ、書き換えるか」
触れるのは価値の数字だけだ。今日は、桁の出し惜しみは一切しない。
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
↓
価値 銅貨99999999999枚
単位が勝手に駆け上がる。銅貨から銀貨、銀貨から金貨へ。
価値 金貨9999999枚
枠が消えて、また浮かんだ。
[終焉の一石]
価値 金貨9999999枚
攻撃力 999999
着弾点に存在するものすべてを、なかったことにする
「……ちょっと、桁外れのが出すぎたな」
ただの石ころが、周囲の光と音をすべて飲み込む底なしのブラックホールのように妖しく発光した。
俺はそれを、影の巨竜の心臓めがけてポイッと軽く放り投げた。
着弾した瞬間――爆発も、衝撃波も、音すら起きなかった。
ただスーッと、巨大な竜の姿が空間そのものから「初めから存在しなかった」かのように完全に消滅した。
咆哮も、漆黒の靄も、一瞬で綺麗さっぱり消え去った。
広間に、静謐な静寂が降り注ぐ。
床の巨大魔法陣の光が、役目を終えたようにふっと静かに消灯した。
§ § §
コハクが、自分の右手を見つめていた。
目の下にあった黒い痣が、まるで潮が引くようにスーッと指先のほうへ退いていく。
目の下から頬へ、頬から顎へ、顎から首へ、鎖骨へ。九日間かけて這い上がってきた呪痕が、逆再生のように消えていく。
肩を抜け、肘を抜け、手首を通って、白く細い指先から黒い煙となってフッと霧散した。
あとには、傷ひとつない透き通るような健康な白い肌だけが残された。
コハクがおそるおそる右腕を上げた。
肩の上まで、何にも引っかからずまっすぐに上がった。
「ご主人様……」
「上がるな」
「上がります……!」
両手を頭の上でパチンと綺麗に合わせた。
そして、自分の右手を左手で何度も何度も強く握りしめた。
「熱くないです……! ズキズキ痛くも、重くもないです……!」
九日ぶりに血色の戻った頬に、ぼろぼろと涙が伝った。琥珀の目が、濡れてきらきら光っている。
言い終わる前に、コハクが涙声で俺の腰に勢いよくしがみついてきた。
完治した右腕にも、ぎゅっと温かい強い力がこもっていた。
「わふっ……! わふっ……! ご主人様……っ!」
「言葉になってないぞ」
「うれしくて……言葉になりません……っ!」
俺はしゃがみ込み、思い切り泣きじゃくるコハクの背中を、優しくポンポンと叩いた。
§ § §
夕暮れの王都に戻ると、冒険者ギルドは割れんばかりの大歓声に包まれた。
ギルド長バルドが受付から巨体を揺らして飛び出し、太い髭を震わせた。
「本当に……本当に最下層の主を討伐したのか!?」
「ええ、核を消滅させました」
「その子の腕は……!」
「この通り、完全に完治しました」
コハクが両袖をまくって、すべすべの白い両腕を突き出して見せた。垂れ耳が誇らしげにぴょこんと持ち上がる。
受付のリサが、手に持っていた報告用紙を取り落とした。
「……九日分、壁に刻まれた通信記録が全部届いていました。毎日、きっちり一層ずつ……」
「約束通り送ったよ」
「ギルドの事務手続きです……でも、本当によかったです……!」
いつも無表情なリサの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
バルドが息を呑み、それからギルド中に響き渡る大声で吠えた。
「レイン! お前に、ギルド史上最高の名誉称号『迷宮踏破者』を授与する!」
ギルドじゅうの冒険者たちから、地鳴りのような拍手と歓声が沸き上がった。
コハクが俺の隣で、誇らしげに胸を張った。
「ご主人様、世界一すごいです! 全部勝ちました!」
「お前が九日間、弱音を吐かずに歩き抜いたからだよ」
「わふっ……!」
尻尾が、千切れそうなほどの速さで左右にブンブンと振れた。
§ § §
王都の街並みが茜色の夕日に染まる中、コハクが気持ちよさそうに両手を大きく伸ばして背伸びをした。
「ご主人様! 約束、覚えてますか!」
「山盛りの美味い肉だな」
「はい! 山盛りの肉です!」
夕日で、明るい茶色のくせ毛と耳の白い先が赤く染まっていた。
「金貨五百枚あるからな。お腹がはち切れるまで奢ってやるよ」
拾った石ころひとつで、死の呪いが消え去り、最高の相棒の命を取り戻した。
二人の笑顔を乗せて、夕暮れの王都の通りへ歩き出す。悪くないよね。




