第22話 二層の毒霧地帯を、突破した
昨日、俺とコハクは迷宮の一層を電光石火で突破した。
残り九層。コハクの右腕を蝕む呪痕が心臓へ達する前に、最下層の魔獣の王の心臓を潰さなければならない。
俺のスキル『鑑定』は、ものの価値を書き換えられる。書き換えた通りに、現物が変わる。ただし生き物の肉体には効かない。だから、この足で一番下まで駆け抜けるしかない。
地下二層へ降りる石階段の先は、視界を真っ白に遮る濃密な毒霧に包まれていた。
湿り気を含んだ淀んだ空気に、鼻腔を突き刺す強烈な硫黄と腐敗の刺激臭が混ざり合っている。コハクがピクッと鼻を震わせ、苦しげに耳を伏せた。
「ご主人様……変な、喉が焼けるにおいがします」
言い終わる前に、コハクが痛む右腕を強く抱え込んで、ガクンとその場に膝をついた。
「コハク!」
「へ、平気です……っ。急に、腕の骨の奥がズキズキして……っ」
汗で張りついた茶色の前髪の下で、琥珀の目がぎゅっと閉じられていた。唇が白い。
袖をめくると、黒い呪痕が毒霧の瘴気と共鳴し、皮膚の下でドクドクと不気味に赤黒く腫れ上がっていた。
迷宮の毒と呪いは、互いを呼び合って侵食を早めるらしい。最悪の環境だ。
§ § §
霧の奥から、苦しげに激しく咳き込む声が聞こえてきた。崩れた石壁にもたれかかる三人組の冒険者たちだ。
「大丈夫ですか」
「く、来るな……この先は致死性の猛毒の沼だ……俺たちはもう、肺がやられて一歩も動けん……」
泥まみれの布で必死に口元を覆っているが、顔色は土気色を通り越して紫色に変色している。
顎髭を編んだ重装甲の大男が、痛みに脂汗を流すコハクの右腕を見て、絶望に目を細めた。
「その嬢ちゃんの腕……迷宮の呪いか」
「知っているんですか」
「三年前、俺のパーティの若い奴が同じ呪いを受けた。腕から肩、そして心臓へ回って……そこで二度と立ち上がれなくなった」
「その人は、今は」
「今も故郷のベッドで寝たきりだ。意識も戻らん」
コハクの耳が、力なくぺたりと垂れ下がる。呼吸が浅く乱れていた。
俺は屈み込み、足元に落ちていた泥と体液で汚れた一枚のぼろ布を拾い上げた。
枠が浮かぶ。
[ただのぼろ布]
価値 銅貨0枚
「じゃあ、書き換えるか」
触れるのは価値の数字だけだ。名前にも効果にも、指は届かない。
[ただのぼろ布]
価値 銅貨0枚
↓
価値 銅貨20000枚
銅貨100枚で銀貨1枚。数字が勝手に繰り上がる。
価値 銀貨200枚
枠が消えて、また浮かんだ。
[女神の面布]
価値 銀貨200枚
効果 あらゆる毒・臭気を無効化する
半径十メートルに効果あり
「よし、完全な毒無効だ」
泥を弾き飛ばすように、布が純白の絹のような神聖な輝きを放った。雨上がりの白百合のような清涼な香りが、ふわりと周囲を満たす。
俺はその布を、コハクの首元に優しく巻いてやった。
蹲っていたコハクが、すうっと深く澄んだ空気を吸い込んだ。
「わふっ……! 息が苦しくないです! 腕の熱いズキズキも、ぬるくなりました!」
白い布に鼻先を埋めて、コハクが小さく笑った。垂れていた耳が、片方だけ起き上がる。
「毒を遮断しただけだからな。痛みが消えたわけじゃないぞ」
「はい! でも、ちゃんと立ち上がれます!」
三人組の冒険者たちも、紫だった唇にみるみる血色が戻り、大きく息を吐き出した。
「な、なんだこれは……!? 肺の激痛が……嘘のように消えていく……」
「この布の浄化結界です。半径十メートル以内なら効くので、俺たちの後ろから離れないでください」
§ § §
毒霧が渦を巻く広間の中心に、天井に届くほどの巨大な紫色の毒キノコがそびえ立っていた。
湿った巨大な傘の裏から、キラキラと紫に発光する致死性の胞子を吹雪のようにまき散らしている。二層の主、マタンゴロードだ。
大男が槍を構えようとしたが、毒の後遺症で腕が小刻みに震えていた。
「すまん……足手まといにしかならん」
「代わりに一つ、重要な伝言を頼まれてくれますか」
「何だ」
「地上に戻ったら、ギルドのリサさんに伝えてください。『二層を突破した』と」
「……それだけでいいのか」
「それが一番大事なんです。後ろから追ってくる人たちへの道標になりますから」
俺は足元に転がっていた、黒ずんだ小石を拾い上げた。
枠が浮かぶ。
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
「じゃあ、書き換えるか」
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
↓
価値 銅貨80000枚
単位が勝手に上がる。銅貨から銀貨へ。
価値 銀貨800枚
枠が消えて、また浮かんだ。
[灼熱の太陽石]
価値 銀貨800枚
攻撃力 20000
触れた瞬間、周囲を高温で焼く
「熱属性か。湿った毒キノコには一番よく効く」
石ころが真っ赤な溶岩のように発光し、掌がジュッと音を立てるほどの熱波を放った。
俺はその灼熱の石を、巨大キノコの根元へ向けて力いっぱい投擲した。
ドガァァァァンッ!と眩い白熱光と猛烈な熱風が広間を埋め尽くした。
巨大キノコは悲鳴を上げる間もなく、一瞬でパチパチと炭化して真っ黒な灰の山へと崩れ落ちた。
紫の毒胞子も熱波で完全に蒸発し、広間に立ち込めていた濃霧が嘘のように澄み渡っていく。
§ § §
三人組を一層の階段まで見送り、俺たちは三層への下り口に戻った。
大男が、コハクの頭を大きな手でポンと優しく撫でた。
「嬢ちゃん。うちの若い奴は絶望して諦めたが、あんたは最高の連れを持ったな」
「はい! ご主人様は、呪いの進むスピードより絶対に速いです!」
撫でられた頭を、コハクが照れくさそうにすくめた。頬がぽっと赤くなっている。
男たちが笑顔で階段を上っていき、足音が遠ざかる。
俺は壁の冷たい石肌に、短剣で二本目の深い傷を彫り込んだ。二層、突破。
「残り、八層だな」
「はい、あと八つです!」
コハクが左手で一生懸命指を折って数えようとする姿を横目に、俺たちはさらに深い闇が広がる地下三層へと足を踏み入れた。悪くないよね。




