第21話 迷宮の主を、一撃で沈めた
建国祭の翌朝、コハクの腕に浮かんだ黒い痣は、すでに肘の関節を越えて二の腕まで這い上がっていた。
俺のスキル『鑑定』は、ものの価値を書き換えられる。書き換えた通りに、現物が変わる。
だが、生き物の肉体そのものにはこの力が一切使えない。
冒険者ギルド長バルドが、古びた羊皮紙の迷宮地図を睨みつけていた。白髪混じりの太い髭を撫でる指先が、焦燥で小刻みに震えている。
「迷宮の最下層・第十層に、古代の呪詛を撒き散らす魔獣の王がいる。過去数百年、生きて辿り着いた冒険者は一人もおらん」
「そいつの心臓を潰せば、コハクの呪いは解けますか」
「そのはずだ。ギルドの太古の古文書にはそう記されている」
「……あと何日持ちますか、この黒い痣」
バルドはすぐには答えなかった。
分厚い唇をギリリと噛み締め、太い首を一度だけ横に振って、地図を俺のほうへ無言で押しやる。タイムリミットは数日しかない、それが無言の答えだった。
コハクが、腕の激痛を必死に堪えて笑ってみせた。
「ご主人様、迷宮アタックですか! コハク、元気いっぱいですからすぐ行けます……わふっ」
言いながら、尻尾だけは元気に振ろうとしている。振れずに、途中で力が抜けた。
息を吸うたびに喉が引きつり、額に脂汗が滲んでいる。無理に空元気を出しているのが、痛いほど伝わってきた。
§ § §
迷宮の入り口は、王都から半日、枯れ草と鋭い岩肌が剥き出しになった険しい岩山を登った場所にあった。
ぽっかりと巨大な口を開けた洞窟の奥へ、湿った石造りの階段が地下の闇へ向かってまっすぐ落ちている。
底から吹き上がってくる冷気は、カビと腐敗の匂いが混ざり、肌をチクチクと刺すように冷たい。
受付嬢のリサが、鉄格子の門のところまで見送りに来ていた。
「一層突破するごとに、壁に目印の通信符を刻んでください。……万が一のとき、後続の捜索隊が追えるように」
「縁起でもないな」
「ギルドの事務手続きです」
事務的を装った声が、語尾だけ微かに震えて掠れていた。
俺はコハクの右手を取り、麻の袖をそっとめくった。
二の腕の皮膚の下で、ドス黒い血管のような呪痕がトクトクと熱い脈を打っている。今朝よりも、指二本ぶん心臓へ近づいていた。
「痛むか」
「……焼けた鉄の棒を押し当てられてるみたいに、すっごく熱いです」
言い終わると、琥珀色の目が伏せられた。頬だけが、熱で赤い。
「熱いのは、一番ひどい痛みって言うんだよ」
§ § §
迷宮第一層は、天井から冷たい水滴が絶え間なく滴り落ちる薄暗い迷路だった。
青白い発光苔が張りついた湿った壁の奥から、酸の匂いを放つ丸いスライムの群れが飛び出してくる。
コハクが痛む右腕をかばい、左手だけで咄嗟に身構えた。
「ご主人様、下がってください!」
「下がるのはお前だ」
俺は足元に転がっていた、濡れた泥まみれの小石を拾い上げた。
枠が浮かぶ。
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
「じゃあ、書き換えるか」
触れるのは価値の数字だけだ。名前も攻撃力も、向こうが勝手に決める。
[ただの石ころ]
価値 銅貨0枚
↓
価値 銅貨50000枚
銅貨100枚で銀貨1枚。数字が勝手に繰り上がる。
価値 銀貨500枚
枠が消えて、また浮かんだ。
[隕石の欠片]
価値 銀貨500枚
攻撃力 9999
着弾点を中心に爆発する
「よし、物騒なのが出た。今は最短で突き進む」
石ころが漆黒の重金属のような光沢を放ち、手のひらにズシッと強烈な重みを感じさせた。
俺はそれを、通路を塞ぐスライムの群れへ向けて思い切り投げつけた。
ズドォォォォンッ!と鼓膜を破るような轟音が炸裂した。
衝撃波で石壁が激しく震え、天井からパラパラと鍾乳石の破片が降り注ぐ。
立ち込める白煙と硝煙の匂いが晴れると、通路を埋めていた魔物は粉塵すら残さず消滅していた。
コハクが目を丸くして息を呑んだ。
「ご主人様……一瞬で道が開きました!」
「ただの石ころだったんだけどな」
「わふっ、びっくりして痛いの忘れちゃいました!」
白い先端の耳が、久しぶりにぴんと立った。
「忘れられるなら、ずっと忘れとけ」
§ § §
一層の最奥へ進むと、天井の高い開けた石造りのボス部屋に出た。
巨大な牛の頭部を持つ、筋肉質の巨躯が地面を揺らしながらのっそりと立ち上がる。一層の主、ミノタウロスだ。
牛頭の怪物が、腹の底に響く咆哮を轟かせた。
コハクの垂れ耳が恐怖でぺたりと寝る。それでも、俺を背中に庇おうと痛む足を踏み出そうとした。
「下がってろ。今の腕で無理に動いたら骨が軋むぞ」
「……はい」
いつもなら「コハクが戦います!」と意地を張るはずなのに、悔しそうに素直に引いた。その弱気な姿が、何よりも胸に刺さった。
俺は床に転がっていた、折れた木の枝を拾い上げる。
枠が浮かぶ。
[折れた木の棒]
価値 銅貨1枚
「じゃあ、書き換えるか」
[折れた木の棒]
価値 銅貨1枚
↓
価値 銅貨100000枚
単位が勝手に上がる。銅貨から銀貨、銀貨から金貨へ。
価値 金貨10枚
枠が消えて、また浮かんだ。
[雷神の杖]
価値 金貨10枚
攻撃力 5000
振ると雷が落ちる
「雷か。一刻を争うから、ちょうどいい」
木の枝が白銀の杖へと変質し、先端からバチバチとオゾン臭を放つ青白い電撃が迸った。
ミノタウロス目がけて、杖を一閃。
カッ!と視界が真っ白に染まるほどの閃光と雷鳴が炸裂した。
巨体の怪物がドスンと床に崩れ落ち、もう二度とピクリとも動かない。肉の焦げた臭いが鼻を突く。
コハクが歓声を上げた。
「ご主人様! 一層のボスが一撃です!」
「さっきまでただの枯れ枝だったのにな。雑だけど、今は速さが命だ」
§ § §
ボスの巨体の奥に、地下二層へと続く冷たい下り階段が現れた。
俺は短剣を抜き、階段の脇の壁に深く一本の線を刻み込んだ。リサへの進行報告の合図だ。一層突破。
「残り、九層だな」
「はい、あと九層です!」
コハクが指を折って数えようとして、右手の指が痺れて動かないことに気づき、慌てて左手で数え直した。
俺はその冷たく震える小さな左手を、上から温めるようにギュッと握りしめた。
「毎日一層ずつ確実に潰す。九日以内に必ず最下層へ辿り着く」
「九日、間に合いますか……?」
「呪いの痣が広がるスピードより、俺の足のほうが絶対に速い」
コハクの垂れ耳が、安心したようにゆっくりとピンと立った。握った左手が、きゅっと握り返してくる。
「わふっ! ご主人様は世界一足が速いです!」
「まだ走り出したばかりだけどな」
石ころと枯れ枝で、第一層を電光石火で突破した。
コハクの手の温もりを確かめながら、俺たちは暗く冷たい地下二層の階段へと駆け下りていった。悪くないよね。
§ § §
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