47❊教皇閣下
霧がかかったように視界がはっきりしない。これは夢を見ているのか、それとも現実なのか、けれど懐かしい景色だと思った。
――バタバタと足音が聞こえる。
『大変ですネイサン様』
『……っ』
レヴィンは、ぼんやり景色を眺める。見た事のある部屋の調度品、自分に覆いかぶさる男の顔には、怒りや欲情など様々な感情が溢れていた。
『レヴィンが発情期中は、この地下にくるなと言ったはずだ!』
息を荒げる男は何をそんなに怒っているのだろうか、レヴィンにはさっぱり分からなかった。怒鳴りつけられた男は、ヒッと顔を引き攣らせて出て行く。
再度、自分に向けられた顔は真っ赤に染まっており、彼はギリギリと奥歯を噛みしめながら唇を歪ませる。
『……っ、お前は、そうやって、何人も何人も誘惑して、どれだけの使用人を解雇させれば気が済むんだ!』
一度目の伴侶であるネイサンの顔をぼーっと見つめる。一体、彼は何に対して怒っているのか――、ああ、そうだった。
あの小間使いの男がありもしないことを言いふらして、ネイサンが怒っているんだった。
遠い昔に封印した記憶、いや、これは現実なのだろうか、どちらにせよ、レヴィンには悪夢だった――。
『君はどうしていつまでも王子気取りなんだ』
『私は……』
二度目の伴侶であるフランツが宝石を手に取り頭を抱えている――、ああ、そうだった。
注文した覚えもない品物が届いて、訳が分からなくて狼狽する自分にフランツが文句を言っている。
こちらの話を聞いてくれない彼に嫌悪し、この日から部屋に閉じこもるようになった。心配になったのか、時折フランツが様子を見にきたが、レヴィンはそれを無視した。
無視されたことに腹を立てているのか、それとも可愛くない態度が気に食わないのか、彼は頻繁に浮気相手との逢瀬を楽しむようになり、殆ど屋敷には寄りつかなくなった。
けれど、レヴィンが発情期に入ると彼も我慢が出来ず、愛憎の籠った目で身体に触れてくる。その矛盾した行動を受け入れていた。
これも、ただの悪夢だ――。
『レ、レヴィン様……』
『また、君は……!』
真っ赤に染まっている彼女の手首を見つめた。
三度目の伴侶、この時はマリスティーナが行う自虐行為に困り果てていた。
どれだけ優しく宥めても、その時だけしか落ち着かず、目を離せば自分自身は価値がないとでも言うかのように自身を傷つける。
『お願いだから自分を大事にしてくれ……』
見ていると可哀想で、レヴィンも一緒に涙を流した。唯一、彼女と一緒の時は、自分も素直に感情を表に出していた気がする。
彼女が自虐行為をする時は、決まって何かが上手く行かなかった時だった。
例えば、それは刺繍だったり、本当に些細な失敗をまるで大事のように捉え、『私は出来損ない』と言いながら身体を傷付ける。どうやら彼女の母親は兄であるハリーを称賛する一方で、マリスティーナを厳しく育てたようだった。
かなり特殊な躾を行ったようで、何か粗相をする度に、身体が小刻みに震える彼女は精神的な苦痛を抱えていた。
『わ、わたくし……』
『大丈夫だ、私は君の母上とは違うよ、失敗しても怒らないから安心して』
そう言い宥めながら、毎度、医者から処方された薬を飲ませた。
彼女を蝕んでいるのは精神を安定させる薬の方だったのではないかと、レヴィンはいつしか思うようになった――。
『君といるだけで十分だ』
不自由な身体だった。着飾ったレヴィンを側に置いて眺める彼は、自分をまるで人形のように扱った。
他人にレヴィンを抱かせ、それを傍観してはあとで小言を言う。不能だった彼からすれば、思うようにならない身体のせいで、言いたくもない小言を言っていたのかも知れない。
彼の卑屈な性格はレヴィンを窮屈にさせたが、今までの伴侶よりはマシな方だった。
つまらない毎日、何の娯楽も与えられない日々の中で、唯一楽しかったのは馬に乗る時だけ……。
――馬……。
靄がかかったレヴィンの頭が鮮明になっていく、城でセルジュが自分に与えてくれた馬のことを思い出し、ハッと目を覚ました――。
また意識は遠くにあるが、視界だけはハッキリしており、レヴィンは辺りを確認する。何かの草が生い茂る空間が目の前に広がっており、奇妙な匂いが充満していた。
虚ろだった意識が明確になると、ようやく今の状況を把握出来た。
自分が椅子に座らされていることに気がつき、立ち上がろうとしたが、椅子の脚に自分の足が括り付けられており、非力な自分では立ち上がることは無理だった。
その時、「大丈夫ですか?」と柔らかな声が聞こえた。レヴィンは人の気配のする方へと顔を向ける。
「気を失うほどの薬ではなかったのですが、あなたには少し成分がきつかったのかも知れませんね」
「ここは……」
「ああ、ここは薬草を育てている温室です」
教皇が不思議そうな顔でレヴィンを見る。
「そんなことより……」
一歩、一歩、近付いてくる彼が、「まったく発情しませんね」と冷めた目でレヴィンを見下ろしてくる。
顔を斜めに向け、「大概のオメガはあの薬で発情するのに……」と、まるで残念とでも言いたげな顔をした。
レヴィンは教皇を睨みつけ、この拘束を解くように要求したが、彼は素知らぬ顔でレヴィンの身体を見つめるだけだった。
自分が想像していたより、ずっと小柄な教皇を見て本当に彼が聖皇教会で一番権限のある人物なのかと疑問を持った。
一先ず、話をしないことには埒が明かないと思ったレヴィンは、彼の興味をこちらへ向かわせるような会話を選んだ。
「あなたの狙いが私なのは分かりましたが、それで、どうするつもりなのでしょう?」
「……陛下から何も聞いてないのですね」
「何を……」
教皇はレヴィンの目の前で屈むと、近くにあった草をもぎ取った。
「何度も、教会の建設をお願いしたのですが、それを無視し、それならば、あなたを参拝に寄こすように言ったにも拘わらず、それも出来ないと言う」
怒りを孕んだ目でレヴィンを見る彼は、どうやら思い通りにならなかったことに腹を立てているようだった。
「私は別に他のオメガのように、血肉をくれと言ったわけではないのに……、稀有な誘惑香がどれほどの物なのか知りたかっただけ、それだけなのに……」
今、この人は何を言ったのだろうか、彼が〝血肉〟と言った言葉を頭の中で反芻した。
焦点の合わない目をした彼が冷静さを欠いていることに気が付き、「教皇?」と名を呼んだ。含み笑いを見せる彼が、レヴィンに焦点を合わせ、顔を斜めに向ける。
「身内ですら誘惑に落とし込むオメガ。さぞ……淫らな香りなのでしょうね。もしかすると、無属性、いえ、同種のオメガにも有効なのかも知れないと私は踏んでいるんです」
一体、彼は何を言っているのだろうか、一方的に話を続ける彼がまともではないことくらい分かる。それに、レヴィンの誘惑香が特別だとして、それが何なのだというのか。
「素敵なことじゃないですか? それなら、私の作る薬は万物に有効になる。オメガが全ての人種を跪かせることが出来るのですから」
レヴィンは訳の分からない事ばかりをいう教皇を見つめる。
この人間が何を考えているかより、セルジュがどうして教会を毛嫌いしていたのかようやく分かった気がした。
彼の矛盾した言葉を探るかのようにレヴィンは声を出した。
「あなたはオメガが嫌いだと聞いたことがある……」
「おや、ご存じでしたか」
「それなのに〝オメガが全ての人種を跪かせる〟とはどういう意味なのか」
くっと喉元を揺らした彼は、三日月の目を歪ませ、可笑しくて仕方がないと肩を揺らし、本当に何も聞かされてないのかと盛大に笑った。
「私もオメガなんですよ」
「あなたがオメガ……?」
教皇は自身が着ているローブを剥ぎ取ると、レヴィンの前に裸体を晒した。
無数の傷痕、それは水ぶくれのように盛り上がっており、全て古い傷なのが見てとれる。あまりの傷の多さに、レヴィンは目を顰めた。
「醜いでしょう……?」
表情をなくした彼は虚ろな目で何かを探すように視線を彷徨わせる。
「あなたが羨ましい、汚れなきオメガ……。誰よりも淫らなオメガでありながら、愛する人に守られて……、きっと、参拝時には世界中のオメガがあなたを崇めるでしょうね」
羨ましいと言うわりには、教皇の顔は憎悪に歪んでおり、今にも何かを破壊しそうなほどの葛藤と衝動を感じた。
ガラス張りの温室の天井を見上げた彼は、「私は生まれてからずっとこの教会で育ってきました」と言いながら、自分の生い立ちをゆっくりと話し出す。どうやら教皇は、前教皇閣下の妾の子だったという。
「父である教皇は子供である私にアルファの相手をさせ続けました。ご存じですか? オメガは発情中に死んだとしても、事故で処理されるのです」
ぞっとする話を聞かされたが、それに関してはレヴィンも知っていることだった。だから、自分のような高貴なオメガは庶民のオメガから羨望で見られる反面、反感も買っていた。
常に守られているオメガと、いつ何が起きてもおかしくないオメガ、この差を埋めることは難しい。
「父は私を殺したかったのでしょう。早く死ねばいいと、蔑んだ目でいつも見られていた気がします」
突き刺すような目を向けられ、彼の悲しみがじわじわとレヴィンの心までも蝕んでいくようだった。
「ねぇ、レヴィン、救ってあげたいと思いませんか? 世のオメガがアルファよりも優位に立てる世界を……あなたなら作れるはずなのです」
「何を馬鹿な……こと」
微笑みを浮かべた教皇は、脱いでいたローブを羽織り、「ここの草は幻覚草といって、この地に昔から生える薬草なのです」と言いながら彼は草を指ではじく。
不思議なことに、この草はアルファにしか効果がないと彼は言う。しかも、オメガの誘惑香を浸透させると、中毒性が高くなり、どれほど屈強なアルファでも、この草で作られた葉巻が欲しくてひれ伏すのだと説明して来る。
「きっと、あなたの誘惑香を浸透させたら……、いいえ、その血を吸わせたら……」
まるで悪魔の儀式をするような話を聞き、レヴィンは背中から首にかけて悍ましい何かが這い上がってきたかのような錯覚を起こした――――。




